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氷川一歩先生 初登場記念!スペシャルショートストーリー
氷川一歩先生 初登場記念!スペシャルショートストーリー

夢魔の網

 西園寺(さいおんじ)家の家庭環境は、高校二年生の長男、西園寺颯介(そうすけ)によって支えられていると言っても過言ではない。
 何しろ、母とは十年ほど前に死に別れ、十三歳の妹は今でこそ元気になったが、少し前までは呼吸器系の病気を患っていたせいで入退院を繰り返していた。父は、そんな妹の入院治療費や颯介の生活を守るため、仕事に励んで家に帰って来るのもままならない。
 そんな家族の事情もあって、掃除、洗濯、食事の用意などなど、西園寺家の家事はすべて颯介が担っている。
「ふーん、ふん、ふふふーん」
 そんな状況に、颯介自身は「高校二年生の輝かしい青春時代の過ごし方がこれでいいのか」と思い悩むこともあるようだが、鼻歌交じりで掃除機を掛けている姿を見る限り、口で言うほど嫌ではないようだ。
 むしろ、ノリノリだった。
「よし、こんなもんか」
 掃除機を掛け終えて、颯介が満足そうに頷く──と、その足下を斑模様と言うべきか虎柄と言い表すべきか、白黒の猫が音もなく横切って座卓の上に飛び乗った。
「何が『こんなもんか』だ。全然埃を払えておらんではないか」
 満足そうな颯介の気分を挫くように、座卓の上を爪を出さずに前肢でなぞる猫が嫌味ったらしいセリフを口にする。
 ごく自然に、当たり前のように人の言葉を操ってみせた。
「うっせえ。小姑か何かか、おまえは」
 猫が喋る──そんな異常事態に遭っておきながら、颯介は驚くでも動揺するでもなく、猫が叩いた憎まれ口に、忌々しそうな態度で反論した。
 当然と言えば当然だろう。颯介にとって、この白黒猫が喋ることは特別なことでも奇異なことでもなんでもない。ごく普通の〝日常〟になってしまっているからだ。
 人語を操るその猫は、名を琥珀(こはく)という。しかしその名は、颯介によって名付けられたもので、本当の名ではなかった。
 その正体、真の名は白虎(びゃっこ)。西方守護の聖獣にして五行思想の金行を司る獣王である。今は颯介に取り憑いているが、本来であればこの世を成り立たせる万物の根源、その一柱を司るような、神に等しい〝怪異〟だ。
「だいたい、座卓の上に乗っかるなよ。それこそ汚いだろ」
 そんな神にも等しい怪異に対して、颯介は臆するでも怯むでもなく悪態を吐いた。
 この二人──いや、一人と一匹の間には、主従も上下もない。もっとも、当人たちがどう思っているのかは別として、だが。
「何を言うか! 西方守護の聖獣であるこの儂の、いったいどこが汚いと言うのだ」
「まぁ……パッと思い付くのは食い意地、かな?」
「ふ……」
 颯介の一言に、琥珀が口元の牙を見せる。シャキン! と爪を伸ばし、座卓の上に突き立てた。
「うおおおい! やめろよ、バカ! 何してくれちゃってんだよ!」
「ええい! 貴様が儂を愚弄するからであろうが!」
 颯介が琥珀を座卓の上から慌てて持ち上げるが、当の琥珀は癇癪でも起こしたかのように暴れに暴れて手がつけられない。
「痛てて! 痛いっつーの! 爪を立てるな!」
「その程度の痛みで喚くでないわ、この小童が! だいたい貴様は──む?」
 ギャンギャンと──いや、見た目が猫なのでニャーニャーと表すべきか、騒いでいた琥珀が不意に鼻をひくつかせた。
「うん……?」
 そんな琥珀の様子を、颯介は見逃さない。
「どうした?」
 颯介が不審に思えば、琥珀から返ってきたのはニヤリと笑う不敵な態度だった。
「予言してやろう。貴様はすぐにでも、無様に泣き叫びながら許しを乞うてくるだろうな」
「うん……?」
 自信満々で妙なことを言い出した琥珀を、颯介は訝しんだ。
 どうやら琥珀は、噓やハッタリを言っているわけではなさそうだ。そもそも、颯介の両目には聖邪虚実を見抜く〝真眼〟と、万里彼方を見通す〝神眼〟が宿っている。
 その二つの〝シンガン〟のせいで、琥珀のようなこの世ならざる狭間の住民と行き遭うようになってしまったわけだが、だからこそ、琥珀も颯介に噓や偽りが通じないことを理解していた。
 それなら琥珀の言う「泣き叫びながら許しを乞う」というセリフは、実際にそうなるだろうと他ならぬ琥珀自身が確信を持っているということだ。
「おまえ……何を企んでいやがるんだ?」
「儂は何もしとらん。ほれ、部屋の隅を〝シンガン〟を以て視るがいい」
 琥珀がクイッと顎をしゃくる方向へ、颯介は目を向ける。部屋の天井の角だった。
「……んん?」
 勝手知ったる部屋の中。見慣れた天井。ただ、天井の角を意図的に見ることは皆無だったこともあって、颯介はそのとき初めてその存在に気付いた。
「なんだ? 蜘蛛の巣……?」
 確かにそれは蜘蛛の巣だった。天井の角に同心円状の円網が張られている。
 ちゃんと掃除はしていたはずなのに、いつの間にか家の中に蜘蛛が這入り込んで巣を作ることは、そんなに珍しいことでもない。
 ただ、琥珀が指摘し、颯介の語尾にクエスチョンが付くように、それは果たして単なる蜘蛛の巣と言えるのだろうか。
「蜘蛛の巣って……黒かったっけ?」
 颯介が一番の疑問を覚えたのは、まさにそれだ。
 天井角に張られた蜘蛛の巣は、形がはっきりわかるほど、糸の一本一本が真っ黒に染まっていた。
「無論、現世の蜘蛛の巣ではないなぁ。夢魔蜘蛛と呼ばれるヤツだ」
「……なんだって?」
「夢魔蜘蛛──だ。ほぅれ、よく視てみろ。巣の中央に本体がおるであろう?」
 琥珀に促され、黒い蜘蛛の巣まで近づき注視すれば……いる。巣の中央に、地味な色味の蜘蛛がジッと動かずに潜んでいた。
 その姿は、目立つ色味のジョロウグモというよりも、地味な色味のクサグモに近い。
 ただ、大きく異なっているのは腹の部分だ。
 人間の口のような模様がある。
 否。
 それは、文字通り人の口だった。
 口の模様が規則正しく小刻みに動き、まるで歯を嚙み合わせるようなカチッ、カチッ、カチッ、といった音を鳴らしている。
「夢魔蜘蛛はな、その口で──」
「うわっ! 気持ち悪ぃなコイツ!」
 琥珀の説明を右から左に、颯介は思わず掃除機のノズルを夢魔蜘蛛に向けてスイッチを入れた。
 あっという間に夢魔蜘蛛が、黒い蜘蛛の巣ごと掃除機の中に吸い込まれてしまった。
「ふぅ、やれやれ……」
「何をやっとるか、この馬鹿者!」
 颯介がホッと一息吐いたのも束の間、琥珀が怒鳴り声とともに顎へ目がけて体当たりを食らわせて来た。
「相手はまがりなりにも妖の類いであるぞ! かように雑な封じ込めなんぞしおって、面倒なことになったらどうするのだ!」
「い、いや、だっておまえ、あんな気持ち悪いもんを素手で触りたくねぇよ!」
「そこは素直に儂へ頭を下げ、『なんとかしてください、お願いします』と、女々しく泣き付く場面であろうが!」
「あぁん? ンなことするわけねぇだろ!」
「貴様という奴は、少しは儂を敬ったらどうなのだ!」
「誰がおまえなんぞを敬うか!」
 喧々囂々(けんけんごうごう)とした二人のみっともない言い争いは際限なく続くかと思われた──が、その喧噪はガタガタと震えだした掃除機の音に遮られた。
「な、なんだ……? おい、何が起きてるんだ!?」
「決まっておる。その道具の中に吸い込まれた夢魔蜘蛛が、外に出ようと暴れておるのだ」
「え……?」
 確か、夢魔蜘蛛の大きさは親指の爪くらいのサイズだったような気がする。数はもちろん一匹だ。
 その一匹が、今にも掃除機を壊して中から出てこようとしている……と、いうことらしい。見た目の大きさと比べて、並々ならぬパワーがあるようだ。
「おい、これ……外に出てきたら、どうなるんだ?」
「封じた貴様へ、真っ先に襲いかかるであろうな。親指の爪ほどのサイズで、そのパワーは人間並であり、おまけに素早い。無事で済むと良いなぁ」
 それがどれほど脅威的なのかは考えるまでもない。表へ飛び出して来たら、琥珀がニヤニヤするように、颯介の手に負える相手でないことは明白だ。
「おっ、おい琥珀! なんとかしろよ!」
「ふふん。であれば……ほれ、わかっておるであろう? 先ほど、儂はなんと言ったかなぁ? ほれほれ」
 頭を下げ、「なんとかしてください、お願いします」と女々しく泣き付け──と言いたいらしい。
 そんなことはご免被る。
 一度でも琥珀にそんなことをしようものなら、このナマイキな猫っぽい怪異は、どこまでも図に乗るだろう。何より、琥珀に頭を下げてお願いするなんて、颯介のプライドが許さなかった。
 だが、掃除機の中に吸い込まれた夢魔蜘蛛は今なお暴れており、掃除機を破壊するのも時間の問題だった。
そうして飛び出してきたら、それこそ琥珀に頼らなければ対処できない。
「ぐぬぬぬ……!」
 プライドか、身の安全か。
 颯介にとっては究極とも言える二択である。どっちに転んでも、ロクなものではない。だが、それでも決断を下さなければならないのが辛いところだ。
 果たして颯介は──。
「うわっ!」
 ──結局、決断を下すことはできなかった。思い悩んでいるうちに、タイムリミットがきてしまったのだ。
 派手な炸裂音とともに、掃除機が破裂する。これまで吸い込んでいたゴミや埃が部屋の中を舞う。
「うわぁっ!」
 少しでも夢魔蜘蛛からの攻撃を防ごうと、颯介は両手で守りながら身体を強張らせた。
「げふっ!」
 みっともない声が飛び出した。しかしそれは、颯介が洩らした声ではない。
 琥珀の声だった。
 夢魔蜘蛛からの体当たりを腹にでも食らったのか、ぼよんぼよんと転がって、無様にも壁に頭をぶつけていた。
 どうやら夢魔蜘蛛は、掃除機に吸い込んだ颯介だけでなく、一緒にいる琥珀をも敵と見なしているようだ。
「お、おい琥珀! 大丈夫か!?」
 さすがに笑ってもいられない颯介は、割と本気で心配しながら琥珀に声を掛けた。
「……お……」
 返ってきたのは、絞り出すような憤怒の声。
「おのれ、下等な妖風情が!」
「うえっ!?」
 怒気を膨らませる琥珀が白煙を巻き上げ、白く巨大な虎という本来の姿に転じる。
「跡形もなく食いちぎってくれるわ!」
「おっ、おいこのバカ! 部屋の中でそんなデカい体に──うぎゃっ!」
 颯介の声など届くわけもなく、巨大な白虎に転じた琥珀は、親指の爪サイズの夢魔蜘蛛に襲いかかった。
 ここに、巨大な虎と小さな蜘蛛との戦いの火ぶたが切って落とされた。

 とはいえ、琥珀は西方守護の聖獣であり、五行金行を司る白虎だ。今は理由あって中身がスカスカの抜け殻に等しいながらも、下等な妖に後れを取ることなど滅多にあるものではない。
 夢魔蜘蛛との戦いは、割とすぐに片付いた──の、だが。
「……おい、どうすんだよこれ」
 茫然自失といった体で、颯介は目も当てられないほど散らかった部屋の様子に声を絞り出した。
「なんで親指の爪サイズの蜘蛛を相手に、白虎の姿になったんだよ! せっかく掃除したのに、元の木阿弥じゃねえか!」
「やかましいのぅ。夢魔蜘蛛を始末してやったのだ。感謝こそすれ、文句を言うなど言語道断であるぞ」
「言うよ! 文句! 今のこの状況を前にして文句を言わずに、いつ言うんだよ!? こんなに散らかしやがって……奏(かなで)が帰ってきたら、なんて言われるかわかったもんじゃないぞ!」
「そんなもん、兄の威厳とやらで突っぱねれば良かろう」
「ンなことできるか!」
 丁度、そのときだった。
「ただいまー」
 玄関先から、聞き慣れた妹の声が響いてきた。
「ぎゃーっ! どうすんだよ、どうすんだよ、どぉすんだよぉっ!」
「ええい、知らん! 儂は知らんぞ!」
「あっ、待てコノヤロウ! 逃げるな!」
 ただでさえ散らかった部屋の中、さらに埃を巻き上げて追いかけっこを繰り広げる颯介と琥珀は、その後、西園寺家におけるヒエラルキーのトップに君臨する妹の奏に、筆舌に尽くしがたい説教をされた。