『あなたのベッドであたためて 恋する救命救急医』番外編
「恋する子猫」
春原いずみ
宝生務(ほうしょうつとむ)は、不機嫌にグラスを磨いていた。別に、何かあったわけではない。務の場合、不機嫌が通常運転なのである。
「トムくんてさ」
カウンターに座っていたハンサムがにこにこしながら言った。
「せっかくきれいな顔してるのに、いつも怒った顔してるよね」
「すみませんね。これが地顔なんで」
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務は、このハンサムな客が少々苦手だった。最近常連になった医者だ。もともと、この店には医者の常連が多い。マスターが某名門校の出身なので、医者の同窓生が多いのだ。そうした客たちは、基本上から目線でえらそうなので、それなりにあしらえるのだが、このハンサムな客は妙ににこにことフレンドリーなので、調子が狂う。
「おい」
ハンサムな客と並んで座っていた宮津晶(みやつあきら)がつんつんとその肘をつつく。
「トムくん、その手の賛辞は嫌いだぞ」
確かに、務は顔のことを言われるのが好きではない。自分のルックスが美しいことはよく知っている。この顔のせいで、ろくな人生を歩んでこなかった。シングルマザーだった母は、自分にそっくりの女顔に生まれた務を嫌い、虐待した。ようやくそこから逃れて、施設に入ったと思ったら、女みたいな顔だといじめを受け、家出をすれば、この顔のせいでやたら危ない目に遭った。髪で顔を隠すようになったのは、そんな経験から来る自己防衛だった。
「別に……慣れてますから」
優しい晶の言葉が妙に引っかかって、なお不機嫌になってしまう。美貌のマスターが大事にしている恋人らしい晶は、務がむかつくくらい可愛くて素直だ。きっと大事に育てられるとこんな純粋培養ができるんだろうが、野良猫を自称する務からすれば、この毛並みのいい子猫は見ていて腹が立つだけだ。
「そうか? 美しいのはいいことだと思うぞ。少なくとも、俺は好きだなぁ」
開けっぴろげに笑うこのハンサムな医者は、整形外科医だという。
「先生、整形外科だから、顔とかに興味あるんでしょ」
「え?」
「だって、整形するんでしょ。顔」
「え? 違う違う」
彼はくすくすと笑った。彼はいつも笑っている印象のある人だ。いつも不機嫌な自分とは真逆で、常に上機嫌である。
「俺は整形外科で、美容外科じゃないよ。形成外科でもない。俺は骨折とかを治す医者。トムくん、知らなかった?」
「え? そうなの?」
思わず、務は聞き返してしまった。
「僕、ずっと整形外科って、顔直すところだと思ってた」
「ま、よくある誤解だけどね」
「だけど、整形するって言うじゃん」
「それは美容整形だよ。だから、美容外科が専門になる」
そして、彼はあははと嬉しそうに笑う。
「俺、初めて、トムくんとちゃんと会話できた。トムくん、顔もきれいだけど、声もいいよね。ちょっとハスキーで色っぽい」
「……先生、俺のこと褒めても、何も出ないよ」
「え、出してよ。せっかく褒めてるんだから」
「うるっさいなぁ」
務はくるりと後ろを向くと、冷蔵庫を開けた。クリームチーズの箱を取り出し、ついでのように近くの棚から小さな袋をいくつか手元に引き寄せる。
「え……」
務の手元を見ていた彼が、きょとんと目を見開く。
「それ……混ぜるの?」
小さなガラスボウルを出して、クリームチーズを空け、まかないのおにぎりに使う鰹味のふりかけをかける。そして、滑らかになるまでぐるぐるとかき混ぜる。もうひとつボウルを取り出し、またクリームチーズを空け、今度は鰹節と醬油を一垂らし、ブラックペッパーをごりごりと挽いて混ぜた。
「はい、どうぞ」
平らな長皿にこんもりと二つの山にして、スプーンをつけた。そして、にんまりと笑う。
「食べず嫌いしないで、食べてみなよ。味は保証するからさ」
このよく躾けられた血統書付き大型犬みたいな人は、きっとこんなジャンクなもの、食べたこともないだろう。他の客だったら手もつけないようなものだが、好奇心満々の整形外科医はスプーンを手に取った。嫌々ではなく、キラキラと目を輝かせて、おもしろそうにチーズをすくったスプーンを口に運ぶ。
「……うまい……っ」
彼は感に堪えないといった顔で叫んだ。
「これ、ちょーうまいっ! ビールに合うっ!」
してやったりと務は笑った。晶のような無垢な笑顔ではなく、ちょっと一癖ある笑顔だが、珍しい毛並みの美しい猫にはよく似合う色っぽさのある笑みだ。彼がちょっとびっくりした顔をしている。
「トムくん」
彼が言った。
「いやぁ……君……やるねぇ」
「そりゃね」
務はハンサムな整形外科医を見た。なるほど、よく見るとどこにでもいる腑抜けのハンサム面ではなく、この整形外科医はちょっぴり凄みもある。
“そりゃ、病院で修羅場も見てるんだから……そんじょそこらの間抜けとは違うか”
「先生もよくびびらずに食べたね、これ。たまに作るけど、たいていは食えるのか、これって顔されるよ」
「トムくんが俺に作ってくれたんだから、食べないわけないじゃん」
さらっと返されて、務はあんぐりと口を開けそうになった。
“な、何なの、この人……”
「トムくんが俺のためにわざわざ作ってくれたんだからさ、食べるよ、喜んで」
整形外科医の瞳が、真っ直ぐに務を見ていた。その瞳の力に、務は一瞬立ちすくんでしまう。彼の視線にはあたたかな体温があった。務が感じたことのない、優しくあたたかな体温が。
「さて、おいしいものもいただいたから、そろそろ帰るよ」
「待って……っ」
立ち上がった彼の後を、務は思わず追っていた。
「お、送るよ」
「ありがとう」
軽いコートをハンガーから取り、彼の肩に着せかける。その手をすっと握られた。
「え……」
「また来るよ」
彼が囁く。
「待ってて」
「待ってなんか……いないよ」
務はぷんとそっぽを向く。
「待ってなんか……いないから、勝手に……来れば」
「ああ、勝手に……来るよ」
頰に触れるだけのキス。髪を撫でた柑橘類の香り。務の中に、小さな棘のようなものを残して、彼、森住英輔(もりずみえいすけ)は店を出て行ったのだった。爽やかな風のように。
了
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著者からみなさまへ
こんにちは、春原(すのはら)いずみです。「恋する救命救急医」シリーズの2作目が出ることになりました。前作でラブラブになった晶と藤枝ですが、それなりの大人である二人は、ラブだけで生きているわけではありません。いろいろなことがあって、でも、支えてくれる人がいて、また前を向いて歩いて行く。カップルとしても、人としても、ひとまわり大きくなって、さらにラブ度も加速する本作をどうぞお楽しみください。