『精霊の乙女 ルベト 白面郎哀歌』番外編
「ニグレトと馬董」
相田美紅
白虎ヶ原で平和に暮らすルベトから、恋人であるニグレトを連れ去った国・尚。
その王宮内にある、清御殿(せいごでん)。
一人の男が、口笛を吹いて歩いている。背の高い男だ。体には厚みがあり、眼窩は深く、垂れた目元にはどこか甘いかおりが漂っていた。派手な装飾品は身に着けておらず、手には革手袋をはめ、無駄なく垢抜けた印象がある。馬亮董(ばりょうとう)。人から馬董(ばとう)と呼ばれる彼は、尚の武官をしている。
馬董はとある部屋の前で立ち止まり、扉に手をかけた。
「お邪魔します、瑞祥君(ずいしょうくん)様」
そう言うのと同時に、扉を押し開く。
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馬董の視界に、金髪の青年の姿が飛び込んできた。彼は笛の歌口から唇を離し、扉の前に立った馬董に目を向ける。身構えるように、二、三歩後ずさりした。
「馬董……」
「あんまり部屋にこもってると、気分が塞いじゃいますよ。ちょっと運動しません?」
ニグレトの反応を意に介する様子もなく、馬董は快活に笑って手に持った二振りの木刀を見せた。柄には布が巻かれ、刃にあたる部分には、微細な傷や浅い溝がいくつもある。ニグレトは首を横に振った。癖のない、柔らかな金糸の髪が揺れる。白い肌。体の線はなよやかだが、喉仏や肩には青年らしい骨っぽさも備えている。鼻梁は高く、唇は薄紅色をしていた。
「剣術はお嫌いですか?」
子どもっぽく肩を竦めて、馬董は木刀を近くの長椅子の上に放り投げる。
「ええ。僕の性分に、合わないので」
「ああ。だから、村が襲われたときも無抵抗で捕まったんですね。人づてに聞きましたよ。自分の身と引き換えに、恋人と村を救うなんて英雄です」
そう言って、馬董は唇の端で微笑(わら)った。睨むように目を細めるニグレトに、笑みを深める。馬董は彼の怒った顔を見ると、不思議と気持ちが良くなる。
「お優しいのは結構です。でも、あなたのそれはあまりにも自滅的すぎる」
「自滅的?」
馬董はニグレトの前に進み出て、彼の左腕を摑んだ。
「もう少し抗うことを覚えたほうが良い」
馬董は、摑んだ腕を強く握りしめる。眉根を寄せ、ニグレトは低く呻いた。
「なにを……!?」
「痛いでしょう。だったら、抗わなきゃ」
ニグレトの細い体が強張って、骨の軋む音がした。馬董は、この白い腕を折るつもりで力を込めている。
「俺を殴れば、手を離してあげますよ?」
戦わず、誰も傷つけずに守れるものなど、なにもない。
痛みに耐えつつ、金色の瞳が馬董を睨み付ける。唇は、色を失うほどきつく結ばれていた。骨の鳴る音が、馬董の指にも伝わってくる。
ニグレトは両手の拳を固めて耐えるものの、いっこうに殴りかかってこない。馬董はもどかしさに眉を顰めた。
「さぁ!」
強く、ニグレトに迫る。
このままでは、本当に腕の骨を折ることになるかもしれない。馬董に、力を緩めるという選択肢はなかった。
ニグレトの端正な顔が、より一層の苦悶に歪んだとき、薄暗い快感が馬董の背筋を駆け抜けた。項に鳥肌が立つ。なんともいえない、甘美な余韻だ。
「……断る!」
ニグレトが、食いしばった歯の間から答えた。金色の瞳に、決意の光が宿る。こういう目をした人間は、何をされても意志を曲げない。これ以上は無意味だ。馬董は軽く溜息をついて、手を離した。弾かれたように、ニグレトはその場から飛び退く。
「なぜ、そこまで人と争うことを拒むんです?」
その言葉に、ニグレトは険しい目で馬董を睨みあげた。理不尽な扱いに対する怒りは、感じているらしい。
「傷つけられて、傷つけ返して……。そんなことを繰り返していたら、終わりがない」
指の跡が浮いた左腕を摩りながら、ニグレトが答える。
「へぇ……」
馬董は顎を撫でて、興味深げに目を細めた。ニグレトは、さらに言葉を続ける。
「僕は、自分のために誰かを傷つければ、きっと後悔する。なら、痛みに耐えるほうがましだ。── 相手が、あなたみたいな人でも」
馬董はおかしそうに声を立てて笑った。ニグレトが怪訝に眉を顰めると、馬董は更に笑みを深め、愛おしそうにニグレトを見つめた。
「その、ご立派な信念を貫いたってわけですか。だけど、それではいいようになぶられるのが落ちですよ」
「…………」
「俺みたいな連中は、あなたの崇高なお心なんか気にしてません。俺が本気じゃなくて、良かったですね」
馬董は、ニグレトの口元に視線を落とした。彼の唇は、強く嚙みしめたために赤くなっている。白い肌に、痛々しく映えていた。憐憫の情と激しい罪悪感が、鋭く馬董の胸を突く。むちゃくちゃに抱きしめて頰ずりしたいような、今すぐ足元にすがって許しを請いたいような衝動に駆られた。だが、馬董はそれを笑顔で押し殺す。
「そうやってあなたが自らの身を差し出すことで、悲しむ誰かがいると思ったことはありますか?」
「そんなこと……」
「考えたこともない? 傲慢だなぁ」
ニグレトの心に、ルベトが浮かんだ。彼女の笑顔は鮮やかで、色あせることはない。ニグレトは口を結び、袖の下で拳を固めた。
「瑞祥君様。あなたは、愚かでかわいい人です」
そして腹立たしく、憐れでもある。
そういうところが、少し殿(との)に似ている。
馬董は思わず伸ばしかけた手を止めて、己の項を搔いた。
── 殿も、白蓉(びゃくよう)様も、だからあなたのことが好きで、必要としている。
「あなたが、羨ましいな」
呟いた馬董の言葉の端に、切なく深い響きが混じった。微笑んではいるものの、うっすらと陰を帯びて見える。ニグレトは、何か癒やしようのない、痛みのようなものを彼の中に見た。
「……なにか、悲しいことがあったんですか?」
「え? なぜです?」
目を丸めて首を傾げ、馬董が問い返す。
「べつに……」
ニグレトは視線を床に落とした。長い睫毛が伏せられ、瞳が陰る。馬董は、さらに濃い笑みを口元に浮かべた。いつもの作ったような笑顔とは、違う。まるで、とろけるような甘さがある。しばらくの間、彼はニグレトを見つめていた。
「困ったな」
馬董は前髪をかき上げ、天上を仰いだ。
「あなたのこと、少し好きになっちゃいそうです」
「僕は、あなたが好きじゃない」
「そういうところも含めて、ですよ」
ふ、と吐息を零すように馬董が笑う。ニグレトは、敢えて馬董とは視線を合わせなかった。
「剣術はお嫌いとのことなので、俺は帰りますかねぇ」
馬董は顎を撫で、長椅子の上に放り投げた木刀を手に取った。くるりと踵を返して扉に手をかけ、足を止める。肩越しに、ニグレトを振り返った。
「俺、あなたの気概だけは良いと思いますよ」
片目を瞑り、唇の片端に笑みを浮かべ、馬董は部屋を出た。かすかに、口笛の音が聞こえる。
『そうやってあなたが自らの身を差し出すことで、悲しむ誰かがいると思ったことはありますか?』
ニグレトはひとり、馬董の言葉を反芻し、眉を顰めて胸に手を押し当てる。馬董の声に、ルベトの姿が重なった。彼女は兵士に捕らわれ、怯えて泣いている。彼女の涙に、胸が引きちぎられるような思いがした。
「傲慢? だったら、僕はあのときどうすれば良かったんだ……」
馬董の言葉が、胸に刺さっている。そこが、じくじくと熱を持って痛い。
ニグレトの心に小さな棘を残して、馬董の口笛は遠ざかって行った。
終
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著者からみなさまへ
こんにちは、相田美紅(あいだみく)です。『精霊の乙女ルベト』第2弾が発売されました! 1作目は旅の物語でしたが、本作の舞台は中華風の王宮です。壮大な建物に美しい庭、城下町の喧騒など、格式ある華やかな世界を描けていればよいのですが。新キャラが増え、試練も増えてより一層ルベトはニグレト捜索に右往左往しております。二人は無事再会できるのか。釣巻 和(つりまきのどか)先生の素敵なイラストと共に、お楽しみください!