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誓いはウィーンで 龍の宿敵、華の嵐

樹生かなめ/著 奈良千春/イラスト 定価:本体660円(税別)

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STORY

誓いはウィーンで 龍の宿敵、華の嵐定価:本体660円(税別)

清和の宿敵・藤堂、命がけの愛の逃避行──!?

「逃がさないから覚悟しろ。お前は俺のものだ」そんな言葉で藤堂和真(とうどうかずま)を縛るのは、ロシアン・マフィア“イジオット”の次期ボスと目され、その冷酷さゆえに冬将軍とも呼ばれる、どこまでも規格外の男・ウラジーミル。彼は藤堂を愛人と言って憚らず、昼夜貪るように抱く。その執着の深さに藤堂は戦慄し、離れようとするが……。そこへ藤堂の存在をウラジーミル唯一の弱点と見なした襲撃者たちが現れて!?

著者からみなさまへ

いつも「龍&Dr.」シリーズを応援してくださってありがとうございます。今回はバナナ・パニックでのたうち回った氷川と愉快な仲間たちを一休みさせまして、藤堂と愉快な仲間たちでお送りさせていただきます……というわけではありませんが、海を渡った藤堂のお話ざます。魔性の男と呼ばれる所以をご堪能くださいまし。ロシア・ロマンとウィーン・ロマンも詰め込んだ一冊、是非、読んでください。

初版限定特典

誓いはウィーンで 龍の宿敵、華の嵐

初版限定豪華SSイラストカード
「魔性の男」より

 藤堂は俺の愛人だ。
 俺の愛人なのに、性懲りもなく、セルゲイがマクシムに探りを入れている。

……続きは初版限定特典で☆

special story

書き下ろしSS

『誓いはウィーンで 龍の宿敵、華の嵐』番外編
「冬将軍の覚醒」
樹生かなめ

 ロマノフの血を絶やすな。
 双頭の鷲の誉れを忘れるな。
 ピュートル大帝やエリザヴェータ女帝時代の煌々たる栄華を取り戻せ。
 ロマノフ。
 その言葉の意味も理解できない頃から、呪文のように何度も繰り返された。
 ロシアはロマノフのもの。
 ロシアはロマノフが治める地。
 かつて後進国であったロシアをヨーロッパ列強に伍する超大国に成長させたのはロマノフだ。
 ロマノフなくしてロシアはない。
 僅かながらも受け継ぐロマノフの血ゆえ、俺の人生は生まれる前から決まっていた。
 俺はミハイル。
 ロマノフ王朝始祖であるミハイル・フョードロヴィチ・ロマノフから名をもらった。名付け親は実父ではなく、ロマノフ王朝再興のために結成されたロシアン・マフィアのイジオットのボスだ。

続きを読む




 幸運だったのか、不運だったのか、定かではないが、俺が誕生した三か月後にボスの長子であるウラジーミルが生まれた。
 もし、俺のほうが生まれるのが遅かったならば、ボスは俺にロマノフ王朝始祖の皇帝の名をつけなかっただろう。
 俺の名はミハイルではなくてウラジーミルだったかもしれない。
 俺とウラジーミルは歳も同じならば、銀髪に近い金髪も青い目も同じ。
「ウラジーミル……じゃない、ミハイルか? そっくりだな?」
 イジオットのボス、つまりウラジーミルの実父でさえ間違えるほど、俺とウラジーミルはよく似ていた。
「ウラジーミル、あなたはどうしてそんなに冷たいの。弟には優しくしなさい……あ、ごめんあそばせ。ミハイルね? あなたはウラジーミルと違って優しい子よね?」
 イジオットのボス夫人こと実母でさえ間違えるほど、俺とウラジーミルはよく似ていた。
 誰もが口を揃えたが、背格好だけでなく声も似ているという。
 ボスの右腕と目されているパーベルには、まじまじと見つめられてしまった。
「ミハイルはウラジーミルに瓜二つ」
 スリスリ、とパーベルの大きな手に頬を撫でられ、俺は満面の笑みを浮かべた。
「みんな、そっくりだって言うよ」
「ああ、ミハイルとウラジーミルは双子みたいにそっくりだ」
 パーベルは一呼吸置いてから、しみじみとした口調で言った。
「お前にとっていいのか、悪いのか……悪魔の悪戯じゃなくて女神のギフトならいいな」
 あの時、イジオットの大幹部が言った言葉の意味が理解できなかった。
 けれども、ウラジーミルが数多の危険に晒されるようになってからわかった。
 何せ、ウラジーミルによく似た俺も間違えられて狙われたから。
 ウラジーミル、彼はロマノフ王朝の血を受け継ぐ皇子だ。
 俺はミハイル、ロマノフ王朝の血を僅かながらに受け継いでいるが……イジオットでは兵隊に過ぎない。
 けれど、それでいい。
 最前線に送りだされる一兵卒で構わない。自分の境遇になんの不満もなかった。



 十七歳まで無事に生き延びたこと自体、奇跡に近いのかもしれない。
 学校からの帰り道、いきなり、停まっていた車から数人の男たちがわらわらと出てきた。
「ロマノフの皇子だな」
 危険。
 敵だ。
 俺とウラジーミルを間違えている、とミハイルは瞬時に悟った。
 それでも、否定はしない。
 ロマノフ王朝の血が僅かながら流れていることは確かだ。
「……それで?」
 去年、亡くなった父親はロシアン・マフィアのイジオットの大幹部だった。今現在、ミハイルはイジオットのボスの庇護で生きている。すなわち、自分自身もイジオットの関係者だ。
 冷静に周囲を見回した。
 おそらく、ブリヌイ専門店の前でブリヌイを食べている若い男のグループも敵だ。紅茶の専門店にいる男たちもきな臭い。
 軽く見積もっても、二十人もの男たちに囲まれている。
「イジオットのボスの長男だな。噂通り、色男だね。女の子にモテるだろう」
 案の定、見知らぬ男たちはミハイルとウラジーミルを間違えている。
「……用件は?」
「俺たちと一緒に来ておくれ。おとなしくしていたら危害は加えない」
 白い髭の大男が宥めるように言うと、周りにいた逞しい男たちは隠し持っていた武器を取りだした。
 いくつもの銃口がミハイルに向けられる。
「……っ」
 白昼堂々、こんなところで発砲する気か、とミハイルは一瞬慌てたものの、落ち着きを取り戻す。ここで狼狽したら終わりだ。
「ウラジーミル、お前のオヤジは気にくわないが、お前にはなんの恨みもない。暴れないでおくれ」
 乗れ、とばかりに拳銃で車を指された。
「…………」
 おそらく、このまま拉致され、監禁されるのだろう。イジオットのボスに対する人質として。
「ウラジーミル、皇子様を力尽くで扱いたくないんだが……」
「どこの人ですか?」
 イジオットと対立しているロシアン・マフィアと言えば、真っ先にブルガーコフが浮かぶ。
「ブルガーコフ」
 想定内の返答に、ミハイルが納得したように頷いた途端、周りから太い腕が何本も伸びてきた。
「おとなしくしな」
「手間をかけさせるな」
「ロマノフの坊や、腕を切り落とされたくないだろう」
 力尽くで車に押し込める気だ。
 連れさられたら助からない、とミハイルは俊敏に何本もの太い腕を躱した。
 ドカッ。
 一番体格のいい男を殴り飛ばし、その手から拳銃を奪う。
「ブルガーコフ、誘拐計画は綿密に立てろーっ」
 ズギューン、ズギューン、ズギューン、ズギューン、ズギューン、ズギューン。
 ウラジーミルは拳銃でブルガーコフの男たちを撃った。
 一発命中。
 六人、次から次へと倒れる。
「……こ、この野郎」
「ガキだと思って優しくしてやったらーっ」
 シュッ、と背後からナイフで斬りつけられた。
 やられた。
 しまった。
 いや、その寸前、身体を反らした。
 血の海で倒れた男から新しい拳銃を奪い、ブルガーコフのメンバーを撃ちまくる。
 一瞬にして、辺りは再び血の海。
「俺を誰だと思っているんだ。ロマノフの皇太子じゃなくてロマノフの兵隊だぜ」
 俺は金銀財宝に囲まれて生まれ育った皇子じゃない。
 先祖が帝政ロシアの大貴族であっても、今の俺は一兵卒だ。
 殺さなければ殺される。
 殺される前に殺せ。
 戦場の鉄則は叩き込まれている。
 ちょっとした情をかけたばかりに殺された父親の二の舞は演じない。
「……お、お前は……ボスの長男のウラジーミルじゃないのか?」
 紅茶の専門店から飛びだしてきたブルガーコフの男が、ようやく、人間違いに気づいたらしい。
「……そういえば、ボスの親戚にガキのくせにやけに使える兵隊がいると……」
「……ボスが引き取って教育しているって……確か、金髪碧眼の美少年……ミハイル……お前のことか?」
 金髪碧眼の美形とブルガーコフの兵隊たちの戦いは、通行人が通報する前に終わった。勝利者はイジオットの一兵卒ことミハイルだ。すでに夥しい血を目の当たりにしても動じたりはしない。



 ロシア革命により、栄華を誇った帝政ロシアは崩壊した。最後の皇帝一家は無残な幕引きを迎えさせられたが、傍系の皇子は地下に潜って生き延びた。そうして、ロマノフ王朝の復興を目指し、結成した地下組織がイジオットだ。
 それ故、イジオットはほかのロシアン・マフィアとは一線を画していた。規模にしても機動力にしても裏と表のビジネスにおいても。
 イジオットの本拠地であるネステロフ城はロマノフ王家が所有していた宮殿のひとつであり、その豪華絢爛さは、帝政ロシア時代の権勢とイジオットの勢力を物語っていた。
 華麗なるネステロフ城の一室に、ミハイルは部屋を与えられて住んでいる。当然、ミハイルは帰宅途中、ブルガーコフの襲撃を受けたことを報告した。
「ミハイル、全員、始末したのか。すごいな」
 ボスの右腕とも言うべきパーベルに感服されたが、ミハイルは淡々とした調子で答えた。
「ひとりぐらい生かしておいたほうが、後々にはよかったと思います……が、俺にはその余裕がありませんでした」
 すみません、とミハイルは礼儀正しく詫びを入れた。
「ミハイル、お前の判断は正しい。よくやった」
 パーベルのみならずボスも満足そうに大きく頷く。
「ウラジーミルが狙われています。ウラジーミルの警護を見直してください」
 この一件により、ブルガーコフが卑劣にも一般の高校生であるボスの息子を狙っていることが判明した。ウラジーミルは子供の頃から優秀で、将来を嘱望されている。人質に取られたら、いくら剛胆なボスでも屈服するしかない。
「そうだな。ミハイルの言う通りだ」
 パーベルは事態を重く見て、ウラジーミルの護衛を増やそうとした。それなのに、肝心のウラジーミルが拒否する。
 後見人のグリゴリーがどんなに説得しても、聞き入れない。
「ミハイルがひとりで対処できた。俺も自分で対処できる」
 ウラジーミルにはウラジーミルなりのプライドがあるらしい。
「ウラジーミル、俺は兵隊だ。ウラジーミルはボスの後継者だ」
 ミハイルとウラジーミルの教育官は違う。イジオット内での役割が異なるからだ。
「ミハイル、煩い」
「ウラジーミル、何かあってからじゃ遅い。ブルガーコフの奴らはどんな手を使うかわからない」
「黙れ」
「ちゃんと聞いてくれ」
「その煩い口を切り刻んでほしいのか?」
 シュッ、と双頭の鷲の紋章が刻まれた短剣の切っ先が向けられた。
 瞬時にミハイルは身を躱す。
「……おい」
「俺をみくびるな」
「ウラジーミルをみくびっているわけじゃない。ブルガーコフが汚すぎるんだ」
「返り討ちにしてやる」
 ミハイルは困惑したものの、後見人のグリゴリーと一緒に血気盛んなウラジーミルを宥めた。
 宥めようとしたが徒労と化した。
 イジオットの皇太子は子供の頃から言いだしたら聞かない。
「グリゴリー、ウラジーミルはどうしてあんなに強情なんだ?」
 ミハイルが呆れ顔で肩を竦めると、後見人のグリゴリーはこめかみを揉んだ。
「ウラジーミルは下手に優秀すぎる。……あまりにも優秀すぎるから」
「自分ひとりでなんでもできる、とウラジーミルは思い上がっているのか?」
 ウラジーミルの優秀さは誰もが称賛するが、あのままではいずれ、足を掬われる。ミハイルの懸念はグリゴリーの懸念だ。
「ウラジーミルの意見を曲げることはボスでもできない」
「そうだろうな」
「一度、痛い目に遭っていただくしかないか」
 説得を断念した後、グリゴリーは捨て身の教育をウラジーミルに施そうとしているのか。
「ブルガーコフはきっと汚い手を使ってウラジーミルを拉致しようとする。痛い目に遭っても、無事だったらいいけど……」
 ミハイルは街のど真ん中でブルガーコフの兵隊と戦ったからわかる。おそらく、イジオットの皇太子の想定外の卑劣な手を取るはずだ。
「肝心のウラジーミルが聞き入れてくれないから仕方がないだろう」
「もう一度、説得しましょう。タチアナにも頼んで一緒に説得をしてもらえば」
 実母のオリガが説得しても、ウラジーミルは聞き入れないだろう。弟のアレクセイやセルゲイの意見には耳も貸さないはずだ。残るは婚約者のタチアナか。
「無理だ。ウオッカを飲む大切な時間をネヴァ河に捨てるようなものだよ」
「ウラジーミルは危険だ。それだけは確かです」
「ミハイル、お前はウラジーミルに引けを取らない優秀な男だ。だが、決してうぬぼれてはいけない」
 ポンポン、とグリゴリーに肩を叩かれ、ミハイルは大きく頷いた。
 そして、引いた。
 これ以上、ウラジーミルの警護についてグリゴリーと話し合っても無駄だとわかったから。



 翌日、ミハイルが危惧していたことが早くも起こった。
「ミハイル、一大事だ」
 グリゴリーの青い顔を見た途端、ミハイルにいやな予感が走る。
「グリゴリー? まさか、昨日の今日でブルガーコフが動いたのか?」
 俺がブルガーコフならば今日叩く、とミハイルもブルガーコフの動向を予測していた。ウラジーミルもそうではなかったのか。
「そのまさかだ」
「ウラジーミルは無事ですね?」
「ウラジーミルの手足は送られてこないから、手足は無事なようだ」
 豪勢なネステロフ城に未だかつてない衝撃が走る。
 ミハイルもグリゴリーとともに、関係者が集う皇帝の間に向かった。
「……ウラジーミル……ウラジーミルは私を……私を庇って……私を庇って……私を逃がそうとして捕まってしまったの……私が……」
 皇帝の間ではウラジーミルの婚約者であるタチアナが、狂わんばかりに泣きじゃくっていた。なんでも、学校からの帰り道、いきなり、ブルガーコフのメンバーに囲まれたという。
 パーベルの沈痛な面持ちが、ウラジーミルの現状を物語っている。
「……だから、警備を見直せと進言したのに」
 ミハイルが独り言のように零すと、グリゴリーも同意するように頷いた。
「ウラジーミルは痛い目に遭ってやっと学んでくれたかな」
「グリゴリー、一刻も早く、ウラジーミルを助けだしましょう」
 ミハイルはウラジーミルの救出に名乗りを上げた。
「ミハイル、出すぎるな」
「……はい?」
「お前もロマノフの血を引く男だが、まだ一兵卒にすぎない。ボスの指示を仰げ」
 グリゴリーの含蓄ある言葉に、ミハイルは己の立場を思い知らされる。
 今すぐ救出に向かいたくても、ボスの承諾がなければ動けない。
 もっとも、これがロマノフ王朝の再興を誓って結成されたイジオットという組織だ。
 ミハイルはボスの救出命令を待った。自ら志願した。
「ボス、ウラジーミル救出チームに俺を加えてください。必ず、ウラジーミルを助け、ブルガーコフを叩き潰してみせます」
 一刻も早く、ウラジーミルを助けだしたい。ミハイルにはその思いしかない。
「ミハイル、勇ましいな」
 ボスはいつもとなんら変わらず、威厳たっぷりに構えているだけだ。優秀な長男が人質になっても、いっさい動じない。……動じていないように見える。
 ウラジーミルを愛していないのか。ウラジーミルが心配ではないのか。
 ふと、そんな疑念さえ抱いてしまう。
 けれど、いくらなんでも、ボスが優秀な後継者を見捨てるはずはない。
 ミハイルは精鋭たちと一緒にハードな訓練をしつつ、ボスによる救出命令を待った。
 今日か、明日か、と待ち続けた。
 タチアナの嗚咽が響き渡るネステロフ城で待ち続けたのだ。



 タチアナが強制的にソチの別荘に送られた日、ミハイルは孔雀石がふんだんに使われた広間に呼ばれた。
 玉座にはボスが座り、宰相ならぬ大幹部のパーベルが左側に控えている。右側にいるのは、ウラジーミルの後見人のグリゴリーだ。彼はパーベルの弟でもあった。
「ミハイル、今からお前は私の息子だ」
 息子。
 息子と言ったのか。
 ボスが俺を息子だと?
 違うよな?
 一瞬、ボスに何を言われたのかわからず、ミハイルは言葉に詰まった。
「今日、この時より、お前がウラジーミルと名乗れ」
「……ボス?」
「私の実の長男は無能の極みを晒している。おめおめとブルガーコフの手に落ち、一向に逃げだしてこない」
 何をしているんだ、とボスは作戦に失敗した将軍を詰るかのような態度で、自身の血を受け継ぐ直系を罵った。
 パーベルも同意するように相槌を打つ。
「ボス、ウラジーミルがなまじ優秀だったから期待しすぎましたね」
「ああ、あのような無能な息子は無用だ。グリゴリー、ブルガーコフともども始末しろ」
 ボスは容赦ない抹殺命令を下した。
 実の息子を。
 実の息子を始末しようというのか。それもウラジーミルの後見人の手で。
 ミハイルは金の斧で首を斬り落とされたような気がした。ガラガラガラッ、と足下から何かが崩れ落ちていく。
 だが、ウラジーミルの抹殺指令を受けたグリゴリーは平然としていた。
「ボス、畏まりました」
 グリゴリーは一言もウラジーミルの命乞いをしない。
「グリゴリー、お前の教育が悪かったのか? ウラジーミル自身の資質がなかったのか?」
「ウラジーミルがロマノフの女神に愛されていなかった。それだけです」
 グリゴリーは臆せずに言うと、海千山千の兵士を連れて皇帝の間を後にする。
 ……いや、後ろ姿が見えなくなる寸前、ようやく、ミハイルの舌が動いた。
「……ま、待ってください」
 ウラジーミルが無能だとは思えない。おそらく、ブルガーコフの見張りが厳しいのだろう。イジオットの助けを信じて待っているはずだ。
 ミハイルは血相を変え、グリゴリーを止めようとした。
「ミハイル、ボスの命令だ」
 ポンポン、とグリゴリーに宥めるように肩を叩かれたが、ミハイルは首を振った。
「ボスの命令でも……グリゴリーはウラジーミルの後見人だ。俺はウラジーミルが無能だとは思えない」
「私もウラジーミルが無能だとは思えないが、皇帝に相応しいとは思えない。今回の一件でつくづく実感した」
 皇帝とはイジオットのボスにほかならない。確かに、厳重な警備を拒否したウラジーミルに慢心がありはしたが。
 だからといって。
 いくらなんでも。
 ミハイルはグリゴリーに縋ろうとしたが、すぐに無駄だとわかった。
 振り返れば、ボスとパーベルの凍てつくような冷たい目。
 ボスの決定事項に逆らってはいけない。イジオットにいる限り。
 ウラジーミルはイジオットの戦場の鉄則を思いだし、グリゴリーから手を離した。
「ミハイル、今日この時よりお前がボスの息子だ。ウラジーミルと同じ轍は踏むな」
 グリゴリーの言葉がミハイルの胸に突き刺さった。
「……グリゴリー」
「お前は柔軟な考えの持ち主だからウラジーミルより皇帝に相応しい。楽しみにしているよ」
 チュッチュッ、とグリゴリーに慈愛に満ちたキスを両頬にされる。
 ああ、グリゴリーはウラジーミルを殺して自分も死ぬ気だ。後見人として地獄までついていくんだ。ウラジーミルも天国には行けないから。
 ミハイルはグリゴリーの気持ちが手に取るようにわかった。
 もはや、ミハイルにはどうすることもできない。ただただ運命という舟に乗り続けるだけだ。大きな波が襲ってくる。
 否、大きな波どころではない。
 嵐だ。
 嵐の夜、小舟に乗っているかのような錯覚に陥った。



 グリゴリーが歴戦の兵士たちとともに、ブルガーコフの本拠地に乗り込んでからどれくらい経ったか。
 予想通り、ブルガーコフ全滅の知らせが入った。
 しかし、グリゴリー並びイジオットの兵士はひとりも戻ってこない。ウラジーミルの生死も不明だ。まるで箝口令が敷かれているかのように、ミハイルの耳にはなんの情報も入ってこない。
 おかしい。
 何かあったのか。
 大幹部のパーベルに尋ねても、何ひとつとして教えてはくれない。
 ミハイルはいくつもの疑問を抱きつつ、ネステロフ城で過ごした。
 何せ、ミハイルはボスの長男として扱われるようになっている。当然、慣れない。戸惑うばかりだが、不可解なくらい周囲に動揺はない。
 ウラジーミルの実母のオリガでさえ、ボスに文句を向けなかった。それどころか、優しく労ってくれる。
「ミハイル、あなたはウラジーミルと違って優しいわね」
 オリガに優しく抱き締められ、慈愛に満ちたキスをされる。
「……オリガ」
「私の息子はあなたの弟よ。アレクセイとセルゲイを可愛がってあげてね」
「はい」
 オリガは前々から尊大で表情のないウラジーミルより、ひとつ年下の次男を溺愛し、三男坊は猫可愛がりしていた。
 ウラジーミル自身に問題があるとはいえひどい、可哀相だ、とミハイルが亡くなった皇太子にしみじみと同情した日のことだ。
 ボスとパーベルに呼ばれ、瑪瑙石の間で紅茶を飲んでいた時。
 なんの前触れもなく、ウラジーミルが銃声とともに現われた。
 ガガガガガガガガガガッ。
 ウラジーミルが連射するマシンガンでイジオットの兵士が次から次へと倒れていく。
「ウラジーミル?」
 ミハイルは我が目を疑った。どうしてウラジーミルがイジオットのメンバーを撃ち殺すのか。
「ウラジーミル、血迷ったか」
 パーベルがボスの盾になるように立った。
 ……が、ウラジーミルのマシンガンが火を噴いた。
 ズッ、ガガガガガガガガガガッ。
「……ウ、ウラジーミル? ボスとパーベルに何をするんだっ?」
 ミハイルが止める間もなかった。
 ボスとパーベルが。
 イジオットの中心人物ふたりが。
 ウラジーミルのマシンガンによって、イジオットのボスと大幹部が殺された。
 瑪瑙石がふんだんに使われた優雅な広間が、瞬く間に血の色に染まる。
 ウラジーミルとミハイルの視線が交差した。どちらも同じ青い瞳だ。
 スッ、とマシンガンの照準がミハイルに合わせられる。
 やる気か。
 本当にウラジーミルなのか。
 悪い夢じゃないのか。
 ミハイルは困惑したものの、常に携帯している拳銃を手にした。
 スッ、とウラジーミルに銃口を向ける。ここで狼狽したら終わりだ。
 よく似た金髪碧眼の美青年ふたり、止める者はひとりもいない。
 ふたりは無言のまま睨み合った。
 どちらもトリガーを引かない。
 だが、いつでもトリガーは引ける。
 これ以上ないというくらい張り詰めた緊張の糸。
 プツリ、と切ったのはほかでもないウラジーミルだ。
「ミハイル、お前はこのまま俺として生きるか?」
 どうやら、ウラジーミルは自分の不在中に何があったのか、察しているようだ。けれども、悲しんでいる気配はない。
「謹んで辞退する」
 子供の頃から、ウラジーミルと自分を比べ、不満を抱いたことは一度もなかった。ボスの長子は恵まれているようで恵まれていない。縛られていないようで縛られているから。
「ならば、俺の兵隊にしてやる」
 この場でそんなことをほざくか。
 ミハイルがいやというほど知っている傲岸不遜なウラジーミルがいた。それこそが、ロマノフの血の証かもしれない。
「いいだろう。ウラジーミルの兵隊になってやる」
 誰かの兵隊になるのならばウラジーミルがいい、とミハイルは純粋に思った。
「俺に恥をかかすな」
「ウラジーミル、俺をほかの無能な奴らと同じだと思わないでくれ」
 ミハイルは尊大なウラジーミルに臣下の礼を取った。
 心の底から忠誠を誓った。
 もっとも、ウラジーミルはすぐにマシンガンを構え直し、壁に飾られているレンブラントの名画を撃ち抜いた。
 ズガガガガガガガガガガガガガッ。
「ウラジーミル、何をするんだ? ……え?」
 レンブラントの名画の向こう側には隠し部屋があった。
 ボスとパーベルがウオッカを飲んでいる。
 ミハイルは血の海で倒れているふたりの遺体を見つめた。
「やはり、影武者だったのか」
 ウラジーミルは自分が撃ち殺したボスとパーベルを眺める。
 破壊された隠し部屋から、ボスとパーベルがのっそりと出てきた。
「ウラジーミル、派手にやったな」
 ボスがしたり顔で笑うと、パーベルも賛同するように頷いた。
「ウラジーミルは何事も派手すぎる」
 ウラジーミルはボスと大幹部の苦言を横柄な態度で一蹴した。
「お前らにそんな注意はされたくない」
 ウラジーミルはマシンガンの照準をボスとパーベルに合わせる。
 影武者だったのか、とミハイルは初めて気づいた。影武者だと気づかずに、一緒に紅茶を飲んでいたのだ。
 もっとも、自分の鈍さを反省している場合ではない。
 今にもウラジーミルは実の父親と大幹部を手にかけそうだ。
「ウラジーミル、やめろ」
 ミハイルはウラジーミルからマシンガンを取り上げた。
 いや、取り上げられない。ウラジーミルに有無を言わせぬ勢いで拒まれてしまう。
「ボスとパーベル、俺を殺そうとした。覚悟しろ」
 ウラジーミルは自身の父親を手にかけようとした。
 ブルガーコフに監禁され、イジオットの救出を待っていたのだろう。それなのに、ブルガーコフの本拠地に乗り込んできたのは救出隊ではなかった。
 どれだけウラジーミルがショックだったか、ミハイルでも手に取るようにわかる。
「それでこそ、私の息子だ」
 ボスは狼狽するどころか、自分を殺そうとする息子を褒め称える。傍らに立つパーベルにしてもそうだ。
「死ね」
 ウラジーミルは大悪魔のような顔でマシンガンを発射した。
 ……駄目だ。
 いくらなんでもそれは駄目だ。
「ウラジーミルっ」
 ボカッ、とミハイルはウラジーミルの首の後ろを拳銃の柄で力任せに殴った。
「……ミハイル?」
 俺に臣下の礼を取ったのは誰だ、とウラジーミルはダイヤモンドのような目で詰っている。
「ボスとパーベルに手を出すな。そもそも、俺の注意を無視して護衛を増やさず、ブルガーコフに捕まったウラジーミルが悪い」
「……こ、この」
 ボカッ。
 再度、ミハイルは苦しそうなウラジーミルを殴り飛ばした。
「無事にボスの後継者が帰ってきて何よりだ。ロマノフの女神はウラジーミルを祝福している。父親殺しに手を染めるな」
 ウラジーミルは一度言いだしたら聞かない。ミハイルが取る手段はひとつしかなかった。
 バタリ、とウラジーミルが瑪瑙の間の床に倒れ込む。
「ミハイル、お前も派手なことをするな」
 パーベルに唖然とされたが、ミハイルは気にしない。
「相手がウラジーミルですから……って、いったい何があったんですか?」
 聞きたいことがあまりにも多すぎて、何から聞いていいのかさえわからない。
「どうやら、ウラジーミルが覚醒したらしい」
 パーベルは興奮気味に頬を紅潮させ、ウラジーミルを称賛した。
「ウラジーミルの覚醒?」
「ウラジーミルはブルガーコフを全滅させ、グリゴリーも殺した」
 期待以上の働きだ、というイジオットのトップとNo.2の声が聞こえたような気がする。
 ミハイルはウラジーミルに押された無能という烙印が外されたことを察した。
「……グリゴリーは最初から死ぬ気だったみたいですが……」
「ウラジーミルはロマノフの女神に愛されていた。サムライ美少年の助っ人がいたよ」
 ウラジーミルひとりでブルガーコフの全滅もイジオットのメンバーの全滅も無理だ、とパーベルは言外に匂わせている。もちろん、助っ人の存在もウラジーミルの運と力があってこそだ。
「サムライ美少年の助っ人?」
「それより、ミハイル、お前はウラジーミルの兵隊でいいのか? ウラジーミルに取って変わるチャンスだぞ?」
 パーベルに指摘された通り、今ならウラジーミルを殺せる。
 何しろ、ウラジーミルはミハイルの足下で蹲っている。
「ブルガーコフを全滅させ、グリゴリーたちを殺したウラジーミルに満足しているはずなのに、どうしてそう煽るんですか?」
 なぜ、そんなに争わせるのか、とミハイルは素朴な疑問を抱く。
 古今東西、国の滅亡理由は外敵ではなく内部の敵によることが多いのに。
「イジオットのためになるなら、ウラジーミルでもミハイルでもどちらでもいい。今、こうやってミハイルに気絶させられたのはウラジーミルの甘さだ」
「イジオットのため?」
「イジオットの悲願、ロマノフ王朝の再興を達せられる男が次のボスだ」
 聞き間違いではないのか。
 まだ。
 まだ諦めていないのか。
 すでに帝政ロシアは遠い。ソ連が崩壊しても誰も皇帝の御代を望まなかったというのに。
 ミハイルは呆れ果てたけれども、喉まで出かかった言葉をすんでのところで飲み込んだ。
 亡くなった父親も帝政ロシアの再興を切望して命を落としたから。
「俺はウラジーミルの兵隊としてウラジーミルを支える」
 ミハイルはウラジーミルに臣下の礼を取ったばかりだ。
 ウラジーミルに忠誠を誓った。
 永遠の誓いを捧げた。
 イジオットのボスの座にも、帝政ロシアの皇帝の座にも欲はない。



 ミハイルが力尽くで説得しなくても、意識を取り戻したウラジーミルは冷静に判断できるようになっていた。
 十七歳の身で何ができる、と。
 ウラジーミルは自身の鬱憤を封じ込め、ボスである父親に従った。
 以来、ミハイルはウラジーミルの側近として命がけで戦った。これからも永遠に戦い続ける。……永遠に戦い続けると誓っていた。
 けれども。
 初めて藤堂和真を見た時、脳天に稲妻が落ちたかと思った。
「……あ、あれがあの時に聞いたサムライ美少年……あれが……」
 初めてウラジーミルが羨ましいと思った。ウラジーミルに対するライバル心や憎しみは微塵もない。ただただ藤堂の肩を抱くウラジーミルが羨ましい。藤堂を抱き寄せるウラジーミルが羨ましい。
 ウラジーミルより先に藤堂と巡り会いたかった、とミハイルは初めて運命の皮肉を呪った。
 愛している。
 その一言を告げることさえ許されない相手だ。
 自分の姿がウラジーミルに生き写しだからさらに苦しい。
 ウラジーミルによく似た容姿は、女神のギフトではなく、悪魔の嫌がらせだったのだろうか。
 ミハイルは藤堂に対する想いを深淵に沈め、浴びるようにウオッカを飲んだ。そうするしかなかったから。

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