『龍&Dr.外伝 獅子の誘惑、館長の決心』特別番外編
「変わらぬ愛を」
樹生かなめ
私は異常なのだろうか。
自分でも理解できないが、昔から義信にしか興味が持てなかった。
同年代で初めて敗北を喫した剣士だったから、意識したのは間違いない。
続きを読む
だが、高徳護国流宗主が指導する日光の道場ならば、義信以外にも強い剣士はいた。私は次期宗主である晴信殿にも敵わなかった。次期殿の老いた後見人にも敵わなかった。老人だと侮ってはいなかった。私は全力で練習試合に挑んだが、竹刀がまったく当たらなかったのだ。
私より強い剣士は義信以外にもいる。それなのに、私は義信にしか興味が持てない。これはどういうことだ?
私が異常なのか?
これが古の歌人が詠んだ恋とやらなのか?
ありとあらゆる資料と照らし合わせ、恋だと判断を下した。
私は恋だと自覚したが、義信はいつもと同じ調子で否定した。
力也が生きていたら教えてくれただろうか?
『義信も正道も頭がいいから考えすぎなんだ。一緒にメシを食って笑おうぜ』
力也が私と義信に向けた言葉と笑顔が懐かしい。
救えなかった自分が歯痒い。
義信は私以上に悔やんでいるだろう。今でも自分を責め続けている。
力也はそんな自分たちを恨むような男ではない。思い出の中の力也はいつでも笑っていた。
懐かしい花が舞い降りた。
「寿明さん、ご無沙汰しています」
「正道くん、忙しい中、申し訳ない」
明智松美術館の企画展で展示されていたルーベンスの『花畑の聖母』が、贋作とすり替えられたという事件は聞いている。館長が文部科学省から出向した緒形寿明だということも知っていた。
「構いません。どうぞ、お座り下さい」
「ありがとう」
「どうされました?」
寿明さんに死相が出ている、と正道は会った瞬間、気づいたが、あえて指摘したりはしない。
高徳護国流の先輩剣士がやってきた理由はわかっている。
宋一族の犯行だと瞬時に察した。警視庁が逮捕を諦めている犯罪組織だ。
寿明さんは死ぬ覚悟をしている。
ルーベンスの絵画を取り戻せなければ自死するに違いない。
宋一族について教えたらどうするだろう、と正道はスズランのような容姿とは裏腹の彼の性格を思いだす。寿明は意外なくらい気は強かったのだ。
あれはいつだったか。例年より暑かった夏期休暇の最中、日光の高徳護国流の道場で各地から選ばれた剣士が集った時、力也が逞しい先輩剣士に混じった可憐な剣士に興奮した。ほかの剣士たちも柄にもなくそわそわしている。
『……お、おうおうおうおうっ、義信、正道、見ろよ。美少女アイドルより可愛い女の子がいる……あそこにいるってことは先輩だな。惚れた。マジに惚れた。初恋だぜっ。年下は嫌いかな?』
力也の視線の先にいたのが、剣道着に身を包んだ寿明だ。
一瞬、正道も寿明が女性だと思った。けれど、妙な違和感を覚えた。何せ、自分自身、うんざりするぐらい女性に間違えられてきたから。
『力也、緒形寿明さんは男だ』
義信はいつもと同じように淡々とした声で注意したが、力也は腰を抜かさんばかりに驚いた。
『……へっ? ……へへへへっ? ……男?』
『間違えるな』
『……おい、義信、あの美少女のどこが男だ?』
なるほど、と正道は男だと聞いて納得したが、力也は顔を真っ赤にして憤慨した。ガクガクガクッ、と義信の逞しい肩を揺さぶる。
『言うな』
義信は高徳護国流宗主の次男坊として、晴信とともに子供の頃から寿明に接している。可憐な門人について力也より知っていることは確かだ。
『あの美少女が男ならお前のオフクロは絶対に男だ。あの百年に一度の美少女は女の子だ』
『男だ』
『隣にいる直人さんの彼女だから諦めろ、っていうことを遠回しに言っているのか?』
『違う』
『あの美少女が男だって言い張るのか?』
『寿明さんは男だ』
直人さんと同じ歳、と義信は低い声でボソボソと続けた。
『義信、珍しく冗談を言ったと思ったら笑えないぜ』
『冗談じゃない』
『あんな美少女が男なんてありえん。直人さんと同じ歳にも見えん。もうちょっとマシな冗談を言え』
力也が大声で断言した時、背後に目を吊り上げた寿明が立っていた。
『君、合宿の参加が許されているのは男子だけだと忘れたのか?』
寿明に至極当然のことを言われ、力也は素っ頓狂な声を上げた。
『……あ、あーっ? そういや集まってるのは男ばかりだ。声も可愛いけれど、男ーっ? 嘘だろーっ』
力也の震える人差し指の先は、寿明の可愛く整った顔だ。
やめたまえ、と正道は即座に力也の人差し指を下ろさせる。
『君は高徳護国流の剣士としての礼儀を学んだほうがいい』
寿明は黒曜石のような目で、不躾な後輩剣士を睨み据えた。
『……うわっ、可愛い顔で睨まれると意外と恐い……可愛いけれど恐い……すみませんでしたっ』
力也が素直に詫びると、寿明は軽く笑って流した。可憐な剣士にとってよくあることなのだろう。
『……正道が男だと知った時もびっくりしたけど、寿明さんは正道以上にびっくりした……あれで年上なんてさらにアンビリーバボーだぜ』
力也にまじまじと顔を眺められ、正道は眉を顰める。子供の頃から中性的な容姿でいろいろと言われてきた。一々、感情を爆発させたりしないが、慣れているわけではない。おそらく、寿明にしてもそうだろう。
『力也、失礼だ』
正道がきつい目で咎めると、力也はわざとらしいぐらい大きな溜め息をついた。
『俺の初恋を返せ、って寿明さんに言いたい』
今まで少しでも綺麗な女性がいれば、力也は『初恋』だと騒ぎ立てた。その場で女性に交際を申し込み、お約束のように玉砕している。正道にはどうしたって理解できない。
『何度目の初恋だ?』
『初恋は何度してもいいんだ。正道と義信もさっさと燃えるような初恋を経験して、初恋談義しようぜ』
『力也の場合、初恋談義ではなく女性談義だ』
『そう、女談義がしてぇの。正道と義信が女にフラれる姿が見てぇ。いっつもフラれ男は俺ばかりじゃん』
力也の言い草に呆れたが、あえて口には出さない。ただ、寿明の噂は意外なくらい高徳護国流内で流れていた。
『寿明は女より可愛いけど、性格はなかなかきついぜ。すっげぇ頑固だ』
『頭がむちゃくちゃいいんだ。寿明の偏差値は周りが決めてきたんだぜ』
『男でもあれだけ可愛かったらいい、って寿明さんに迫った先輩がいたけれど、容赦なく断られた』
『無理やりキスしようとした先輩が傘で殴られた、ってさ』
可憐な花のような先輩剣士の噂の大半は武勇伝だ。
寿明さんに宋一族について明かしたら危険だ、と正道は咄嗟に判断する。
当たり障りのない情報を渡してから、渋谷の探偵と眞鍋組の二代目・松本力也について教えた。寿明も眞鍋組の虎が出奔した義信だと知っていたから話が早い。
寿明さん、自分で動いても無駄です。眞鍋組の義信に依頼してください、と正道は小柄な館長を送りだした。
もっとも、正道は宋一族に関するデータを徹底的に集めた。警察のキャリアの中でも、特例コースを歩んでいるからできることだ。同年代のキャリアでは閲覧できない極秘データにも目を通せる。
宋一族の美学、という言葉がキーワードだ。
常に九龍の大盗賊はなんの証拠も残さず、本物と贋作をすり替えている。所有者は贋作にすり替えられたということさえ気づかない。
美術館で展示されている絵画の大半は、贋作だと真しやかに囁かれていた。贋作の陰に宋一族の存在がちらつくケースが多いらしい。それでも警察は手も足も出ない。ICPO(国際刑事警察機構)にしてもそうだ。
嘆かわしいことだが、警察という大組織の闇が宋一族を隠蔽している。警視庁にも宋一族のメンバーが潜んでいることは明らかだ。
寿明さんは眞鍋組に行かず、明智松美術館に戻った。
眞鍋組には明日か?
私と会った後に寿明さんがスタッフを調べ直せばどうなるだろう?
吉と出るか、凶と出るか。
宋一族の美学から推測すれば、寿明さんが調べている時に国外に流出させることはないだろう。
じっくり時を待つはずだ。
まずもって、寿明さんがどんなに調べても、なんの痕跡も摑めない。
寿明さんが緒形代議士の力を借りても無理だ。
眞鍋組の力を借りなければ、寿明さんはルーベンスの『花畑の聖母』を取り戻せない。
今、調べるまで知らなかったが、代替りしたばかりだという若い総帥は、穏健派の先代と違って強硬派だ。
「……パリの画商を暗殺させたのも、モナコの闇オークションの責任者を暗殺させたのも、美術コレクターのウィンゲート男爵を暗殺したのも、美術評論家のバイヨ氏や鑑定士のラクロ氏を暗殺したのも、獅童の可能性が高いのか……今まで宋一族はこういった手は取らなかったらしいが……」
獅童は眞鍋組も戦争を避けていたコロンビア系マフィアのアジトに単身で乗り込み、壊滅させている。韓国系窃盗軍団やベトナム系窃盗軍団も壊滅させた。
寿明さんの背を押すような形で帰したが、間違っていたのだろうか。
寿明さんが単独で動き回ったら危ないかもしれないのか。
力也の二の舞はさせない。
あのような後悔は二度としたくない。
優しい先輩を死なせたりはしない、と正道の正義感に火がついた。
上司が引き留めるのを無視し、宋一族のアジトだと目されている琴晶飯店に向かう。これでルーベンスの絵画が取り戻せるとは思っていない。揺さぶりをかけたかっただけだ。明智松美術館の館長のバックには、自分がついているということも知らせたかった。寿明さんに手を出したら警察が黙っていない、と。
警視庁を出た時から、マークされていることは気づいている。
宋一族のメンバーだろうか。
目的地に近づけば近づくほど、荒っぽい妨害が増えた。暴走族の集団に囲まれ、スリップしそうになったがすんでのところで止まった。冷静に逃げる。
もっとも、妨害は終わらない。
「……タイヤを撃ち抜く気か?」
正道はタイヤを狙われていることに気づき、ハンドルを勢いよく右に切った。
間一髪、逸れたらしい。
けれど、依然としてサイレンサー付きの拳銃に狙われている。犯罪発生率が低い瀟洒な住宅街に入ったというのに。
正道は警視庁に連絡を入れた。
サイレンとともに白バイとパトカーが現れると、煽るように取り囲んでいた大型バイクや改造車は去って行った。
「宋一族だったのか?」
正道は周囲に注意しつつ、アクセルを踏み続け、宋一族のアジトのひとつであるマンションに辿り着く。一階にある琴晶飯店のオーナーのダイアナは宋一族の大幹部だ。すでに中華料理店は閉店しているが、事務所だという最上階の明かりは点灯している。もしかしたら、頭首の獅童もいるかもしれない。
駐車場で車を停め、運転席から降りる。
その時、懐かしい風が吹いた。
キキーッ、という急ブレーキの音とともに車が停まる。
「正道、待て」
急停車した車から飛び降りたのは、幾度となく夢に見た義信だ。
一瞬、目の錯覚かと思ったが、見間違いではない。
「……義信?」
正道は内心では驚愕したが、顔に出したりはしない。
「戻れ」
義信はいつもと同じように無表情だが、尋常ならざる迫力が漲っていた。運転席にいる男は降りようとはせず、無線でどこかと連絡を取り合っている。おそらく、眞鍋組の構成員ではなく影の実働部隊のメンバーだろう。トップのサメ、古株の銀ダラ、殺し屋のウナギ、と有能なメンバーのコードネームが正道の脳裏にはインプットされている。
「不審車やバイクの集団は義信の指示か?」
宋一族の妨害ではなく眞鍋の妨害か、と正道は探るような目で義信を見据えた。いったいどういうことだ、と。
「ここを離れろ」
是枝不動産が所有している駐車場には、立っているだけで危険だろう。それは今さら義信に注意されなくてもわかっている。
「仕事だ」
「お前の仕事じゃない」
「ここがどういうところか知っているのか?」
ヤクザのお前が知らないはずがない、と正道は真摯な目で天下無双の剣士を凝視した。警察のキャリアより眞鍋組の幹部のほうが九龍の大盗賊に近い。
「お前より知っている」
「九龍の大盗賊、目に余る」
確固たる証拠もないし、警察の中枢に食い込んでいるのも把握しているが、これ以上、見過ごすわけにはいかない。放置すれば、被害は大きくなるばかりだ。正道の正義感に一度、火がついたら止まらない。自分自身、止める気にもならない。
「お前の手に負える相手じゃない」
グッ、と義信に腕を摑まれ、正道は少なからず動揺した。
それでも、決して顔に出したりはしない。正道にもプライドがある。
「揺さぶりだけでもかけておく」
正道は険しい顔つきで腕を振り解こうとした。
しかし、義信は力を緩めない。鋭い目を細め、低い声で挑むように言った。
「久しぶりに腕力勝負をするか?」
「腕力ならどうあがいても勝ち目はない」
在りし日より、正道と義信の体格差は如実に腕力の差を物語っている。
正道は思いだしたくもないが、腕力勝負ならば義信どころか力也やほかの剣道仲間にも勝てなかった。唯一、勝てたのが花のような寿明だ。力也に揶揄されたものだ『美少女同士の底辺勝負』と。
正道と寿明はふたり同時に左右から力也を睨み据え、震え上がらせたけれども。
「わかっているなら引け」
「寿明さんを助けたい」
マークしていたのならば私の目的がわかっているはず、と正道は心の中で負け知らずの剣士に訴えた。
高徳護国家はどこまでも門弟を大事にする。あの時も容赦ない借金取りに疲弊していた力也と母親を全力で守った。高徳護国流宗主夫妻が言ったように、あのままずっと高徳護国家で暮らせばよかったのだ。迎えに来た父親の言葉を鵜呑みにせず、きちんと調べるべきだった。あのような後悔は二度としたくない。
「眞鍋を頼るように言え」
「今日、伝えた」
「寿明さんは眞鍋を訪ねてこなかった。三日待て」
義信の口から飛びだした期日に愕然として、正道は軽く首を振った。
「寿明さんの性格と獅童の性格を考慮したら三日も待てない」
「ここでお前が乗り込んでも事態を悪化させるだけだ」
「寿明さんを死なせるよりいい」
寿明は絵を取り戻すまで自殺しないと信じていたが、調べれば調べるほど、宋一族の若い総帥が危険だ。正道自身、琴晶飯店が入っているマンションの最上階の明かりが動いたことには気づいている。最上階から狙われれば、即死だろう。
今、この場に立っているのも命がけだ。それでも、正道に引く気はない。少しでもいいから揺さぶりをかけたい。その一心だ。
「抱いてやるから来い」
一瞬、義信が何を言ったのか、正道は理解できなかった。
ふたりの間に静寂が走る。
どこからともなく、パトカーのサイレンの音が響いてきた。
張り詰めた沈黙を破ったのは正道だ。
「……義信?」
本当の義信か?
誰かが義信に変装しているのではないか?
私が知る限り、義信はこんなことを言う男ではない。
だが、義信だ。
私が義信を見間違えるはずがない。
いったいどうした、と正道は諦めようとしても諦められなかった男を見上げる。愛しい男のはずが不審者に見えるから不思議だ。
「来い」
義信は憮然とした面持ちで吐き捨てるように言うと、正道の腕を摑んで歩きだした。そのまま、有無を言わせぬ迫力で正道が停めていた車に乗り込む。正道は助手席に押し込められるような形だ。
どちらも一言も口にせず、重々しい空気が車内に流れる。ただ、琴晶飯店にこれといった異変はないし、サイレンサー付きの銃に狙われている予感もなかった。
「出すぞ」
義信の低い声が聞こえるや否や、正道を乗せた車が動きだす。
パトカーや救急車のサイレンが鳴り響く中、瞬く間に宋一族のアジトが見えなくなった。今のところ、追跡車の気配はない。
「……義信?」
正道は助手席から運転席でハンドルを操る男に視線を流す。なんとも言い難い違和感でいっぱいだ。
「なんだ?」
「義信だな?」
正道が確かめるように言うと、修行僧の如き男の横顔に影が走った。
「どういうことだ?」
「私の知る義信だな?」
眞鍋組の諜報部隊を率いるサメや宋一族のダイアナは変装の名人だという。姿形だけでなく声音や仕草も完全にコピーするらしい。以前、内閣調査室のベテランが冗談混じりに零していた。『サメとダイアナを内調にスカウトしたい』と。
「今の俺は眞鍋の松本力也だ」
「……私の知る義信だな」
日光の鬼神はもういない。世間のゴミと唾棄すべきヤクザに墜ちた。それなのに、依然として性根は腐っていない。
諦めようとしても諦められず、日に日に想いは募り、今まで何度も無理やり会いに行った。だが、義信はまともに会おうとはしなかった。帰り際、義信の言葉は決まっていた。
『二度と会わない』
胸が張り裂けそうになると同時に腸が煮えくり返った。明確な殺意を覚えたものだ。
記憶が確かならば、こうやって義信が自分から顔を出したのは今夜が初めてだ。
正道の視線の意味に気づいたのか、気づかないのか、定かではないが、修行僧は地を這うような低い声で言った。
「何度も言わせるな。高徳護国義信は忘れろ」
今まで顔を合わせるたびに剣道界で勇名を轟かせた剣士は言った。『高徳護国義信の名は捨てた』と。
「その言葉を寿明さんに言えるか?」
「ああ」
「寿明さんは嘆くだろう」
寿明がヤクザに堕ちた鬼神をどんな風に詰るか、正道はなんとなくだが予想がつく。おそらく、日光の高徳護国家に連れて帰りたがるだろう。
「今さらだ」
「高徳護国義信の名を捨てたのならばどうして私を止める?」
眞鍋組の虎にとって、警察のキャリアを止めるメリットはない。一歩間違えれば、宋一族と眞鍋組が揉めるきっかけになるかもしれない。
それなのに、眞鍋の虎は飛び込んできた。
今の義信は眞鍋組の幹部ではなく昔馴染みの剣士だ。そう正道は実感した。
「力也ならば止めていた」
自分を庇って死んだ力也の代わりとして義信は生きている。常に力也ならどうするか考え、行動しているのだろうか。
……否、どう考えても違う。正道の知る力也ならばこういった言動はしない。
「記憶力は私のほうがいい。力也ならば私と一緒に乗り込んでいた。……いや、先頭を切って乗り込み、私が止めるのも聞かず、ダイアナや獅童と一戦交えていただろう」
誰よりも熱い男だった、と正道がかつての剣道仲間に言及すると、義信はハンドルを右に切りながら低く唸った。
「直情型の男だったな」
「……ああ、間違いなく、力也ならば寿明さんのために命がけで暴れている。力也は寿明さんに憧れていた」
松本力也を名乗るなら寿明さんを助けたまえ、と正道は目で天下無双の鬼神に訴えた。
当然のように、昔馴染みには通じている。鋭すぎる双眸が細められた。
「寿明さんの件、あと三日待て」
「三日以内に寿明さんが眞鍋に依頼すると思うか?」
「ああ、今夜はきっと寿明さん本人が美術館に泊まり込み、調べるんだろう。明日、スタッフを改めて調べて……どうせ、何も摑めない」
義信は握っているデータを考慮し、今後の見解を述べた。正道も同じような推測をしているが、狂暴な首領が首領だけに焦らずにはいられない。
「何も摑めず、途方に暮れた寿明さんが眞鍋の門を叩くと?」
「ああ」
「盗まれたルーベンスの絵画がどこにあるのか、目星がついているのか?」
「わからない」
義信の無表情に惑わされないように、正道は神経を集中させる。眞鍋組は警察上層部より宋一族に関するデータを所持しているはずだ。
「目星がついているんだな?」
「わからん」
「どこだ? 是枝家本家か?」
是枝グループ自体は盗賊稼業に関係ないが、会長は宋一族の頭首だともっぱらの噂だ。宋一族の頭首が宋王朝の傍系皇子の末裔だというから、複雑な裏の歴史も絡んでいるらしい。
「…………」
義信は修行僧のような顔で否定も肯定もしない。
「琴晶飯店の地下か?」
大幹部が仕切るアジトに盗品が隠されていてもおかしくはない。だからこそ、眞鍋の虎は止めたのだろうか。
正道が食い入るような目で見つめると、義信はポーカーフェイスでポツリと言った。
「抱いてやるからそれに意識を向けるな」
ハンドルを三叉路で左に切る男に、冗談や噓を言っている気配はない。
「義信とは思えない言葉だ」
いつの間にか、窓の外の街並みが変わっていた。瀟洒な高級住宅街ではなく、雑多なネオンが点滅する夜の街だ。
「望んでいたのは誰だ?」
義信に淡々とした口調で言われ、正道も感情を込めずに答えた。
「私だ」
あの日、意を決して告白した。道場で押し倒したのだ。
拒絶されただけでなく姿を消され、悲嘆に暮れた。
これでも諦める努力はしたのだ。振り切るため、女性とつき合ったが三日が限度だった。詐欺師でも自分の心は偽れないというから最初から無理な話だ。今も昔も無愛想な剣士にしか興味が持てない。
「望みを叶えてやる」
義信は抑揚のない声で呟くように言うと、車をラブホテルの地下の駐車場に進めた。
正道は驚いたが態度には出さない。今は諦められない男について行くだけだ。速くなる心臓の鼓動を抑えながら。
リキこと義信と正道はどちらも甲乙つけ難いぐらい無表情だった。ふたりとも通夜に参列しているかのような風情が漂っていた。鋼鉄の兵隊と氷の人形がラブホテルに吸い込まれ、泡を食ったのは諜報部隊のハマチだ。思わず、ハンドルを切り損ねた。……切り損ねそうになった。
間一髪、事故は免れたが。
「……う、う、う、う、噓だろ……これは夢だ。俺は夢を見ているんだ。魔女封じなんてリサーチしていたから、魔女の呪いかなんかにかかっちまったのかもしれない……噓だろ……マジにあのふたりがラブホに消えた……ラブホだよな? 道場や射撃場じゃねぇよな? サツじゃねぇよな? 俺がラブホだと思い込んでいるだけで、あれは拘置所か交番か? 姐さんに振り回されて俺の目がおかしくなったのか?」
ハマチがハンドルに顔を埋めていると、諜報部に詰めているベテランの銀ダラから罵声が飛んだ。
『……おい、ハマチ、どうした? 虎は氷姫を止められたのか?』
「……に、に、二代目のチ〇コ……」
虎と氷姫の関係に関し、サメと魔女の間では賭けが成立していた。すなわち、三年以内に虎と氷姫が愛し合ったら魔女の勝ち。三年経っても虎と氷姫が愛し合わなかったらサメの勝ちだ。ハマチは言わずもがな諜報部隊のメンバーや眞鍋の男たちは全員、サメの勝利を信じて疑わない。
『……ハマチ、しっかりしろ。二代目のチ〇コは無事だ。今夜は姐さんに嚙まれていない。報告しろ』
「……に、二代目のチ〇コはサメのもんですーっ」
ハマチの瞼に賭けの敗者が二代目の股間に顔を埋めるシーンが浮かんだ。……否、想像することさえ拒否した。十秒で搔き込んだカツ丼をこんなところでリバースしたくない。
『落ち着けーっ。冗談でもそんなセリフが姐さんの耳に入ったら大戦争だぜ。二代目のチ〇コは姐さんのもんだっ。……で? 虎と氷姫はどうした?』
「……と、と、虎がトチ狂ったーっ」
ハマチはハマチなりに要点を簡潔に報告した。
しかし、銀ダラには通じなかった。
『今、トチ狂っているのはハマチ、お前だ。虎と氷姫を止められたんだな?』
「……虎ってEDだとばかり思っていました……絶対にEDだって……使い物にならないからどんな美男美女の誘惑にも乗らなかったって……えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇーっ? 虎がふんどしを外すーっ?」
『……ハマチ、お前が何を言っているのか、まったくわからん。虎はふんどし愛好者に見えるが、ふんどし愛好者じゃねぇ』
「……こ、今夜、虎のふんどしが外されて、バイアグラが必要になるのか? ……こ、氷姫はとうとう大人の階段を上る……のか?」
『……何を言っているのかわからんが、やっとなんとなくわかったぜ。今夜は虎と氷姫のためにシャンペンを開ければいいんだな?』
銀ダラはようやくハマチが前後不覚に陥っている原因に気づいたらしい。
「……虎と氷姫のために赤飯を炊いてくれ……赤飯……えぇ? う~ん、俺の目が腐ったんだと思う……今の俺の報告を信じないでくれ……きっとこれは魔女が俺に見せた幻想だ……魔女、魔女としか思えない。さすが、魔女だぜ。これは絶対に魔女の仕業だーっ」
『……そ、そうか、魔女が鋼鉄の虎を男にしたのか……氷姫と……シャンペンと赤飯の用意だな……祝電……はいらないのか……生きていりゃ、サプライズなトレビアンがあるぜ』
「……虎と氷姫がラブホから出てこない……出てこない……追っ手をまくためにラブホに入ったのかもしれない、って思ったけれども出てこない……出てこない? ……が、通信機器の電源が切られた? 全部、電源を切りやがった? 電源を切って何をする?」
虎と氷姫をガードしていたハマチも百戦錬磨の銀ダラも、諜報部に詰めていた諜報部隊の男たちも一様に驚いた。まさしく、未だかつてない激震が走った夜だ。
もちろん、虎こと義信と氷姫こと正道は、海千山千の男たちが慌てふためいているなど、知る由もない。ふたりは真っ直ぐにパネルで選んだ部屋に進んだ。
閉じる
著者からみなさまへ
いつも本当にありがとうございます。読者様の応援のおかげで、館長と獅子の恋物語は佳境を迎えました。館長はリキと再会することもできました。カタギの館長がロシアのウラジーミルやニコライに狙われ、藤堂(とうどう)と初めて会って、眞鍋(まなべ)の二代目とリキの極道ぶりを目の当たりにして……一筋縄ではいかない恋物語を見守ってください。電子書籍版の書き下ろし特典SSでは、館長と獅子がきっかけで、リキと正道が一線を越えます。こちらのふたりの恋も見守ってください。