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卯月(うづき)の終わり、桜が散った頃、柊(ひいらぎ)は父に呼び出された。
場所は父の部屋ではなく、お客様を迎える寝殿だ。女房(にょうぼう)伝いに、簾中(れんちゅう)に控えているよう告げられたが、父は姿を見せない。 御簾(みす)から出るなと言われたことで、客人が来ると予測できるが、なぜ柊が呼ばれたのだろう。あまりに唐突で、不安になった。 まさか、婿(むこ)の候補と引き合わされるのだろうか。 柊も今年で十六。裳着(もぎ)は済んでいるし、結婚していてもおかしくない歳だ。 (でも、私が好きなのは忠晃(ただみつ)様なのに……) 賀茂(かもの)忠晃。 柊が幼い頃から世話になっていた賀茂光栄(みつよし)の三男で、少し前、賀茂家に身を寄せた折には、世話役になってくれた人だ。口は悪いし、厳しいし、初めは接しづらい印象だったが、最後まで柊を見捨てず、己の身の危険も省みずに守ってくれた。 「柊様」 忠晃との出会いを思い返していると、女房が側についた。夕星(ゆうづつ)という名の女房は、仕えて長い。 「柊様、あまり緊張なさいませんよう」 「……どなたがいらっしゃるの?」 おそるおそる夕星に訊(き)く。 「中納言(ちゅうなごん)、藤原隆家(ふじわらのたかいえ)様です」 藤原隆家といえば、よく父が口に上らせる名前だ。確か、お亡くなりになった定子(ていし)皇后の弟君ではなかったか。十年ほど前に左遷されたが、その後、都に戻ったとか。 宮中の政(まつりごと)など知りもしないが、重要な人物であるとは聞いていた。 「でも、なぜ私まで?」 「柊様も、ご挨拶(あいさつ)をしていただきたいとのことでございます」 困った。本当に婿がねとして紹介されるのかもしれない。 どうしよう。柊は忠晃が好きで、他の人との結婚など考えられない。 しかし、当の忠晃からは、文の一通も送られていなかった。 本人の口から、柊が好きだと聞いたはずなのに。 やはり愛されてはいないのか。それとも、心変わりをしてしまったのだろうか。 不安に陥(おちい)った心が、さらに沈んだ。 柊が出口の見えない自問自答に囚(とら)われていると、父である中納言と、弟の南天(なんてん)が連れ立って部屋にやって来た。 二人は御簾の外、用意された座具に腰を下ろす。それから間を置かず、車口の方から声が聞こえてきた。 「藤原隆家様がいらっしゃいました」 家人が一息に告げる。父は鷹揚(おうよう)に頷(うなず)いた。 柊はじっとりと汗ばむ手の平を膝の上に置いて、袴(はかま)を握った。やはり人と会うのは緊張する。もともと人見知りなのだ。 簾中にいるのをいいことに、胸に手を当てて深く息を吸った。 「二条殿」 自信に満ちた声が聞こえて、柊は顔を上げた。 御簾越しに藤原隆家の姿を見つめ、何やら様子がおかしいと眉を寄せる。 黒い靄(もや)が隆家を取り巻いているのだ。靄は墨の濃淡が混ざるような色合いで流動し、形を変える。 柊は、人には視(み)えない、あやかしや物の怪(け)を視ることができる。 この靄もそういった類(たぐい)だと思うが、何だろうか。 幽鬼(ゆうき)とは違うようだが、一見しただけでは正体まではわからない。それほど強いものではなさそうだが、放っておいてよいとも思えない。 隆家自身には視えていないようで、大股に歩く様は豪胆で、堂々としていた。 「おお、隆家殿。ささ、こちらへどうぞ」 座具を示して上機嫌で招く父を見やってから、隆家に視線を戻す。 どう伝えるべきか。以前、左近衛少将(さこんえのしょうしょう)に女の幽鬼が視えると告げた時には、たいそう怒らせてしまった。隆家にはどう言うのが一番だろうと考えていると、隆家に続いて入って来た人がいた。 きびきびとした所作。自然体でぴんと伸びた背中に、整った顔立ちと、いっそ冷たくも見える眼差し。見慣れた狩衣(かりぎぬ)姿に、柊は驚いて声を上げる。 「えっ!?」 「柊様?」 慌てる夕星にしまったと思い、咳(せき)をして誤魔化(ごまか)した。 「姫君? 幼い頃にお会いして以来だが、息災のご様子だな」 誤魔化しきれなかったようだが、隆家は柊の無作法を咎(とが)めず、笑ってくれた。女房伝いに挨拶をするが、頭は別のことでいっぱいだ。 もう一度、御簾越しにその姿を確かめる。間違いなく、彼だった。 ――どうして忠晃様がいるの。 柊が文を待ち望んで、ずっと会いたかった人。何度も思い返した姿がそこにある。 でも、喜んでばかりはいられなかった。 忠晃にも、隆家と同じ靄が視える。しかも、忠晃にまとわりついている方が濃く、恐ろしく感じられた。 何があったの。 ときめいた胸が、焦燥(しょうそう)に早鐘(はやがね)を打つ。 隆家ほどの公卿(くぎょう)と共に中納言家を訪ねたというのに、着ているのが狩衣というのも不安にさせた。私事で、こちらが賀茂家を頼る場合ならともかく、彼は今、隆家に伴われているのだ。 何か、よほど急(せ)いた事態なのではないだろうか。 「忠晃殿も、久方ぶりじゃな。娘が世話になった」 「は。その節は、二条中納言様にもお骨折りいただきまして」 忠晃は相変わらず冷たく見える表情で、涼しげに頭を下げた。 黒い靄に、気付いているのかいないのか。彼の姿が記憶にあるそのままで、余計に恐ろしくなった。 「―― そうか。二条殿は、賀茂光栄を頼っておいでだったな。こちらの陰陽師のこともご存じか」 「そうです。もう何年お世話になっているか……」 はっとする。御簾の向こうでは話が進んでいたようだ。隆家の豪快な笑い声が響く。 「謹慎を申しつけられた男を連れて来るので、厭(いと)われるかと案じておったが。ははは、杞憂(きゆう)でありましたな」 嬲(なぶ)るような物言いに、ひやりとする。 忠晃が謹慎処分を受けたのは、柊を守ってのことだ。 結果、忠晃は暦得業生(れきとくごうしょう)からただの暦生(れきしょう)へと滑り落ち、二月の謹慎となってしまった。 「しかし、隆家様。なにゆえ、賀茂忠晃殿をお連れに?」 笑い声が途切れた瞬間、南天が口を挟んだ。柊も気になっていたことだ。 「何ぞ、障(さわ)りでも?」 父も心配そうに声を落とした。 そもそも、貴族たちが頼るとすれば、忠晃より彼の父親である賀茂光栄の方だ。なのに、なぜ忠晃なのだろう。柊にとっては頼れる恩人だが、彼はまだ陰陽寮の学生(がくしょう)だ。 隆家は閉じた扇の先でこめかみを掻いて、実はな、と切り出した。 「我が屋敷で、怪我人(けがにん)やら病人やらが立て続けに出てましてな。しかも家鳴りはする、物は壊れる、と」 まあ、と女房が声を上げた。父も低く唸(うな)る。 「おれは、まあ不幸が重なっただけだろうと気にしておらなんだのだが、噂(うわさ)が叔父上の耳にまで届いた。その叔父が、陰陽師を寄こしたというわけです」 ではこの靄は、隆家の屋敷で起こっている怪のせいなのだろうか。しかし、それにしては隆家への影響が小さい。関係ないはずの忠晃の方が、靄に捕まってしまっている。 探るように忠晃を見つめても、彼は遠く、表情を崩さない。 「それは……左大臣様もご案じなさるでしょう」 南天は、なぜだか戸惑った様子で言った。 隆家はそれを聞いて、にや、と人の悪い笑みを浮かべる。 「あの叔父の親切心など信じられん。政敵の遣わした陰陽師など追い返そうとしたのだが、これの名を聞いて」 隆家は扇の先で忠晃を指した。忠晃は隆家に「これ」呼ばわりされても、表情を変えずに控えている。 「宮中の騒ぎを思い出しましてな。なんでも、二条殿の姫を守るために、検非違使(けびいし)を退けたとか?」 あの時を思い出したのか、父は言葉に詰まったようだ。 見かねた南天が問いに答えた。 「はい。我が姉をお救いくだされたばかりか、桜の怪の元凶をつきとめ、見事鎮(しず)めてくださいました」 はははっ、と隆家が笑った。 「あの状況で、公卿の命に逆らってまで、とは、なかなかに面白い。その男ならば、話くらいは聞いてやろうと思いましてな。―― して」 ひとしきり笑い終わった隆家は、無遠慮な視線を簾中の柊に向けた。 威圧感にびくりとなる。御簾越しで、相手からは見えないはずなのに、捕らわれたような錯覚があった。 「私に何か視えますかな、姫」 どっと冷や汗が流れる。追い詰められたような心地だ。 隆家は、柊があやかしを視る娘だと知っているのか。 誰から聞いたのだろう。いや、隆家は、父とは古くからの知り合いだ。ならば、柊の事情を知っていてもおかしくはないのか。 御簾の外を窺(うかが)う。南天は困った顔だが、父は取り乱していない。忠晃も静観している。 落ち着いて、大丈夫。 言葉を取り次いでいた夕星と目が合った。柊が答えられないとなれば、当たり障りなく返事をしてくれるできた女房だが、今それをしてはまずい。 ほんの少しのくい違いも起こしてはならない。 柊は腹の底に力を入れ、息を吸った。 「直答(じきとう)の無作法をお許しくださいませ」 絞り出した声が震えた。慌てた女房を父が制したのを見て、続けてもいいのだろうと判断する。 どう言うべきだろう。忠晃にも同じものが視えることは、伏せておいたほうがよいのだろうか。陰陽師を疑っている様子の隆家に、視たまま正直に告げてしまっていいものか。 でも、忠晃を信じてもらわなければ危険な気がした。直感だ。 少し間をあけて、柊は切り出した。 「隆家様の周りに、黒い靄のようなものが視えます」 「ほう」 感心したような隆家の声は、弾んで聞こえた。 「お話をお聞きした限り、放っておくと、危ういかもしれません」 忠晃にも靄が視えることは、言わないことにした。 「忠晃様は優秀な方です。私も救われました。お屋敷の障り、ぜひに解決せよとお頼みください!」 言い切って、は、と息を吐く。檜扇(ひおうぎ)を握った手が汗で滑る。不快感の中、じっと隆家の反応を待った。 「くくっ」 それほど間をおかず、隆家は喉を鳴らした。 「姫はよほど、この陰陽師を信用なさっていると見える」 隆家の笑いに明るい揶揄(やゆ)がまじる。緊張から解放されて、柊は小さく声を洩らした。 「あ……」 「そなたも果報者よな」 からかいの矛先(ほこさき)は忠晃にも向いた。 「務めを果たしたまででございます」 「面白みのない答え方をする」 淡々と言う忠晃に、隆家は拗(す)ねたようだ。 威圧感が消えてほっと一息つく。今になって震えがきた。 隆家は怖い。あやかしの恐ろしさとはまた違うが、怖い人だと思う。 「柊様?」 側についていた夕星が心配したようで、小さく声をかけてきたが、反応し損ねる。 そのせいか、彼女は独断で父に進言した。 「あの、柊様を休ませていただいてもよろしいでしょうか? 少々、ご無理をなされたようで……」 「おや、姫は体が弱いのか」 え、と呟(つぶや)いて固まる柊を置き去りに話は進む。 「いや、怖がりでしてな。あやかしの話にあてられたやもしれませぬ。よい、部屋に下がっていなさい」 「待っ……!」 「ほら、柊様。参りましょう」 待って、待って。まだ彼と話せていない。 急かす夕星の顔を見ると、とても心配しているのがわかる。たじろいだのが隙(すき)になり、柊は半ば無理やり部屋に戻された。 「薬湯(やくとう)をお持ちいたします。柊様、お部屋でおとなしくなさっていてくださいませね」 面食らった。おとなしく、なんて、女房に言われたのは初めてかもしれない。 言われるまでもなく、いつだって部屋にこもってじっとしていた。 夕星はさっさと寝具を整えて下がった。先ほど言っていたように、薬湯の用意をしてくるのだろう。 「どうしよう……」 そわそわと部屋の中を動き回る。忠晃にあの靄が何なのか訊かないと。 もはや、婿がねに引き合わされるのではという不安は消し飛んでいた。あの様子では、隆家を婿にという話ではないだろう。 でも、体調を心配されて退室したので、あの場に戻るわけにはいかない。 せめて遠目に様子を窺うくらいは、と思い、衝動的に部屋を出る。 「まあ、柊様っ! おとなしくと申し上げたでしょう!!」 渡殿(わたどの)に顔を出すと、薬湯を持って戻って来た夕星に見咎められてしまった。 「ごめんなさい。でも大丈夫だから……」 「お倒れになったらどうします」 夕星は有無を言わさず柊を部屋に戻し、寝具の上に座らせた。 これ以上怒らせると困るので、おとなしく椀を受け取って口をつける。独特の匂いと苦みのある汁を、息を詰めて一気に呷(あお)った。 「あの、戻って忠晃様と話せないかしら。お伝えしたいことがあるのだけど……」 満足そうな夕星に椀を返しながら頼む。夕星は首を横に振った。 「なりません。お休みくださいまし」 頑(かたく)なな夕星に、柊は悩んだ。どうしても、伝えておかなければならない。 「では、あの、ここに呼んでくれないかしら。それならいいでしょう?」 「とんでもない! 殿方をお部屋に招くなど! ご自覚ください、姫様はお年頃ですよ!?」 え、いまさら、と内心で驚く。 賀茂の屋敷では直(じか)に顔を会わせていたし、用事があれば直接部屋を訪ねることだってあった。もちろん、普通はありえないことだとわかっているが、賀茂家での振る舞いは、光栄を通じて父に報告されているはずである。 信用されて、黙認されているのだと思っていた。 「だって、忠晃様よ?」 柊にとっても、父にとっても恩人だ。 首を傾げた柊に、夕星はなんとも苦い顔をした。 「それでもです」 夕星は弱々しく言った。自分よりも困り顔の夕星に、これ以上食い下がるのはためらわれて、結局柊の方が折れた。 どうしたのだろう。 今まで陰陽師を呼ぶ時だって、こんな風に言われたことはない。 長く仕えている女房の違和感が、頭のすみにひっかかった。 その後も何度か抜け出そうとしたが、そのたびに誰かに見つかってしまう。 柊が言うことを聞かず、あまりに動き回ろうとするので、夕星が見張りについてしまった。そのせいで、忠晃と言葉を交わせないまま夜を迎えた。 忠晃は帰ってしまっただろうか。 上手(うま)くいかない。賀茂家で世話になっていた頃なら、もっと自由に動けたのに。 「灯りは私が消しておくから、もう下がって」 側に控えていた夕星に声をかける。暗くなったので、主人の行動も制限されるだろうと考えたのか、彼女はあっさりと頷いた。 「はい。それでは失礼いたします」 「おやすみなさい」 夕星の衣擦(きぬず)れの音を聞きながら、燈台の火を消す。油の匂いが鼻をついた。 暗闇の中で、そろりと唐櫃(からびつ)に近寄った。中には、忠晃から借りていた狩衣が入っている。賀茂家から戻った時、二階厨子(にかいずし)から移したので、女房は知らない。 女房たちが会わせてくれないなら、自分から会いに行くまでだ。 さすがに、夜の一人歩きは危険だが、弟に頼めば協力してくれるだろう。 文では遅い。少しでも早く、事情を確認しておきたかった。このままでは、とても眠れそうにない。 幸いなことに、月明かりのおかげで、着替えるのに支障はなかった。 緋袴(ひばかま)の結び目に手をかけたところで、背後から衣擦れの音がした。慌てて狩衣を唐櫃に放り込む。 「誰?」 夕星が何か忘れたのかと思ったが、違う。女の動く音ではない。家人はこんな時間に部屋に近付いて来ないし、父や弟でもない。 ![]() 柊が振り返り声を上げるより早く、うしろから羽交(はが)い絞めにされて口を塞(ふさ)がれた。 ひっ、と悲鳴にならない声が、喉の奥で絡んだ。 腹に回る男の腕が締めつけてくる。苦しい。密着する衣越しの体温が移ってくるようで、たまらなく恐ろしかった。 どうしよう。まさか屋敷に侵入されるなんて。 じわじわと浮かぶ涙のせいで、ただでさえ暗い視界が滲(にじ)む。 「しー」 びくっと体が跳ねる。震える柊の耳元で、男が囁(ささや)いた。 「静かにしてください」 耳慣れた声だった。 驚いて瞠目(どうもく)していると、彼は子供に言い聞かせるように言った。 「手を離しますが、大きな声は出さないでください。いいですか?」 幻聴ではないようだ。 ぎこちないながらも頷くと、彼は柊の口を塞いでいたほうの手を離した。 柊は慌てて首を捻る。うしろから抱かれた格好で、体ごとは振り向けなかったのだ。 闇に慣れてきた目が、ぼんやりと人の輪郭をとらえる。 「……忠晃様!?」 「ええ。このような形でお訪ねして申し訳ありません」 彼は申し訳ないと言いつつ、悪いとは思ってなさそうだった。相変わらず、淡々と喋(しゃべ)る。 「どうして……というかどうやって!?」 続きは第2回更新へ! ![]()
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