![]() ![]() ![]()
黙っていることがあると言いながら、秘密を教えてくれないまま、忠晃(ただみつ)は帰ってしまった。文(ふみ)を読めばわかる、とだけ残して。
そのせいで、朝が来るまで一睡もできなかった。 文が気になるのに、灯りをつけるわけにはいかない。女房達は休んでいたし、文がいつどうやって届いたか、詮索されてはたまらない。 じりじりしながら朝日を待って、女房がやって来る前に結び文を解いた。 文を結んでいた枝は柊(ひいらぎ)だった。花の時期ではなく季節外れだが、柊の名前とかけて贈ってくれたのかもしれない。 焦る気持ちを抑えて丁寧(ていねい)に文を開くと、綺麗(きれい)な文字が目に飛び込んできた。 恋ふるとも 君は知らじな来し方を せめて行く末 相添はまほし ――私が恋しく思っていても、あなたは私の心のこれまでを知らないでしょう。せめてこの先は最後まで一緒にいたい。 ざっくり読むとそういう意味だ。ざっくりも何もそのままだが。 はっきり言って上手くない。が、柊にとっては忠晃からの初めての恋文で、むしろ直情的なのが胸にきた。 つい昨日会ったばかりなのに、今すぐにでも会いたくなる。 衝動のまま文台を引っ張り出し、墨を摩る。忠晃の文を傍らに置いて、いざ返事を書こうと筆を墨に沈ませたところで、手を止めた。 (そういえば、忠晃様の手蹟(しゅせき)。どこかで見たような……) 強い既視感を覚え、忠晃からの文に目を落としたあと、部屋を見回す。 目の端に留まったのは、長く使い続けている文箱(ふばこ)。 中には、柊宛てに送られてきた、大事な文が入っている。ほとんどは母からと、弟が「文の君」と揶揄(やゆ)する身元不明の文通相手からだ。 ――そう。「文の君」だ。 柊は筆を置き、衝き動かされるまま文箱を開けた。 文通相手からの文を開き、その横に忠晃からの恋文を並べる。 「同じ……」 柊が十一の時から始まった文の手蹟は、どれを見比べても、忠晃のものと同じだった。 書きつけられた墨のかな文字を、指先でなぞる。 まさか。だって。 「忠晃様だった……?」 あやかしに怯え、人にも怯えて泣き暮らす柊に、励ましの文を送り続けてくれた人。 顔も名前も、男女の別すら知らない、人ですらないかもしれないと思っていた文通相手。 それが、彼だった。 「――――っ!」 口をおさえる。そうしないと、叫びだしてしまいそうだった。 顔が熱い。耳も目も、手足の先まで沸騰(ふっとう)する。 賀茂(かも)家で出会った時に冷たい印象を覚えた忠晃は、言葉のきつい人で、あやかしを視(み)ることに悩む柊に向かって、「視える意味を考えろ」と叱る人だった。 ある日突然文をくれたのは、「目を閉じるな」と、「世界には美しいものもある」と、そう励ましてくれる人だった。 二人が繋がった今、忠晃が言い続けてきたことの意味も繋がる。 視えることの意味。人と違う自分を認めること。 忠晃が伝えたかったことは全部、芯から柊のためだった。柊の心が、死なずに生きていくためのことだった。 (そうか、柊……) 文が結ばれていた枝を手に取る。一番最初に送ってくれた文には、花のついた柊の枝が添えてあった。 あれがすべての始まりだ。柊の香りに誘われて、自分から庭に出たあの時が、柊が殻から出る最初の一歩だった。 こうなると、歌の意味がよくわかる。 たしかに、柊は「来し方」を知らなかった。忠晃の思いも何もかも。 それでも「行く末」を望んでくれた彼に、何を返せるだろう。 女房が朝の挨拶(あいさつ)に来るまで、柊は文を抱いて泣いていた。 この時代の恋愛は、男女の文のやり取りから男が女に通うようになる。結婚となれば、男が三日続けて女の家に通い、所顕(ところあらわ)しという結婚披露の宴があって、そこで正式に婿(むこ)として迎え入れられることになる。 恋愛を楽しむ風潮はあるが、はっきりいって、結婚はそんなに自由ではない。 特に公卿(くぎょう)の姫ともなれば、迎える婿は厳選するものだ。結婚する娘本人の意思もないわけではないが、父親や兄弟、母親の意見が優先される。 さらに言えば、殿方と女性の仲立ちをするのは女房だ。彼女達が協力してくれれば、男は女の元に通いやすいが、敵に回せば文の一通も届かなくなる。 つまり、いかに女房達を懐柔するかが肝なのだ。 「忠晃様からのお文、今どこにあるの?」 自分付きの女房達を呼び集め、問いただす。 女房達は一様に困った顔でうつむいた。その中でも、古参の夕星(ゆうづつ)が手をついて頭を下げる。 「申し訳ございません。殿のご命令で、わたくしがお止めしておりました」 夕星に続いて、若い女房達も頭を下げる。夕星は自分が、と言ったが、やはり女房達全員関わっていたようだ。 柊はため息をついて、夕星を見つめる。 「忠晃様では、そんなに駄目なの?」 「おそれながら姫様。賀茂忠晃様は恩人なれど、いまだ学生の方。父君である暦博士(れきはかせ)・賀茂光栄(みつよし)様も、公卿ではございません。従三位(じゅさんみ)・中納言(ちゅうなごん)のご息女のお相手としては、少々身分がつり合わぬかと」 柊は眉を寄せた。父に反対されているなら、女房達を説得して援護に回ってもらおうと思ったのだが、これはなかなか手ごわい。 父に対して、母ほどの発言力はないものの、女房達の考えも柊の結婚に影響する。殿方への返事を代筆することから、女房は相手の男を値踏みするのだ。条件が悪いと感じれば反対するし、良ければ勧める。 父は長年柊の側に仕えている女房を信用しているので、大抵は耳を傾ける。 どうしよう、と思考を働かせる。 観察してみるが、女房達は別に忠晃を嫌っている様子はない。ただ、世間一般の結婚を考えた時、柊の、ひいては父や弟の不利にならないよう、動いているだけだ。 ならば、少しは付け入る隙があるだろうか。 「……でも、お文くらいは渡してくれても良かったのではないの?」 女房達は、柊が忠晃からの文を楽しみに待っていたことを知っていた。父に言われて二人の仲を警戒し、接触を持たせないようにしていたのだろうか。 「それは……その……」 女房達は急におろおろし始め、お互いに顔を見合わせながら、気まずい表情を浮かべる。 想像していた反応と違う女房達に、柊は首を傾げる。不思議に思っていると、夕星が意を決したように口を開いた。 「お怒りにならないでください。わたくしどもは姫様に送られてくる文をあらためるのも仕事の内なのですけれど……」 「ええ」 不用意な相手と関わりを持たせないようにという、事前の配慮だ。 場合によっては、主人の手を煩(わずら)わせるまでもなく、女房が返事をすることもある。 それについては文句はない。自分宛ての文を読まれるのは恥ずかしいが、昔、柊が自分で判断できるだけの強さを持たなかったせいでもある。 「お文の歌が、ですね。あまりにも、その……」 「何? 怒らないからはっきり言って」 ごくり、と誰かが唾を飲んだ。張りつめた空気の中、夕星が声を上げた。 「ありていに申し上げて下手だったのです!」 「へ……下手!?」 何という言われようだろうか。柊はしばらく目を閉じて考えて、女房達に向き直る。 「でもそれ全部、忠晃様の手蹟なのでしょう? だったら欲しかったのに」 柊がすねた声で言うと、女房達は生ぬるい、曖昧な笑みを浮かべた。 「そ、そうですか。殿のお許しがあれば、すぐにでもお持ちいたしますが……」 文殻として燃やされたり、掃除に使われていたらどうしようかと心配していたが、きちんと取っておいてくれたようだ。 安堵したが、やはり一度、父と話さなければ駄目らしい。 「わかりました。父上とお話ししてみるから、それまでは預かっておいて」 「はい。……柊様」 考え事のために黙り込んだ柊に何を思ったのか、夕星が少々慌てた様子でまくしたてた。 「お文をご覧になっても、がっかりなさらないでくださいませね。中身があれでも忠晃様は、まめに送ってきてくださっていたので」 「そうです、そうです! 返歌がないにもかかわらずせっせと! 姫様を大事に思えばこそです!」 返事を送れなかったのは、女房達が文を柊まで届けてくれなかったせいではないか。 というか、女房達は柊に忠晃を忘れさせたいのではないのか。二人の仲を反対する割に、妙に忠晃の肩を持つ。それとも、柊を案じるがゆえだろうか。 うちの女房はこんなにおせっかいだったかしらと首を傾げて、柊は彼女達をよく見ていなかったのだと気付く。 人見知りが激しくて、身の周りのことは自分でした方が気が楽だった。長く仕えてくれた女房相手でもそんな調子だったから、彼女達も柊の気持ちを察して、そっとしておいてくれたのだ。 「……ありがとう」 柊が返事をしたので、女房達は表情を緩めてほっと息をはいた。 感謝を口にしたのは、これまで世話になっていた意味も込めてだが、伝わっていないようだ。それをわざわざ説明するのは気恥ずかしくて、柊は結局唇を閉じた。 女房達との話を終えた柊は、母の部屋を訪ねたい旨を夕星に告げる。夕星は慣れたもので、特に詮索もせず「ではお伺いを立てて参りましょう」と忙しく出て行った。どこか嬉しそうでもある。他の女房達まで笑顔を浮かべていたので、柊は首を傾げた。 「何?」 「いえ。近頃の姫様は、北の方様とよくお話しになるので、わたしくどもは安心しておりますの。以前は、とても緊張しておいででしたもの」 「それは……今思い出すと恥ずかしい誤解があって」 女房は心得ている、というふうにうなずいた。彼女も屋敷に仕えて長い。 「わたくしどもから見ると、いつ緊張の糸が切れるかというご関係でしたよ。乳母(めのと)はお亡くなりですし、軽々しく親子のことに口を出せるものではありませんから、歯痒い思いでした。仲直りされて良かった」 しみじみと言われ、気恥ずかしさに俯いていると、北の対の屋に向かった夕星が戻ってきた。 「柊様。北の方様はいつでもよいと」 思ったより早かった。親子で、同じ屋敷内とはいえ、一応先触れを出した方がいい。 母には母の都合がある。家政を預かり、女房達にあれこれ指図する北の方として、ぼんやりしているだけではない。 一人でいいからと女房を下がらせ、渡殿(わたどの)を通って北の対の屋に向かう。 母の部屋に近付くにつれて、自分の部屋とは違う香の匂いがした。 「母上、柊です」 「こちらにおいで」 部屋の外から声をかけると返事があったので、御簾(みす)を上げて中に入る。 母の部屋には、母の他に女房が二人控えていた。訪ねると伝えたのはつい先ほどだったのに、柊のための座具や脇息(きょうそく)が用意されている。 「何かあったの?」 柊が向かい側に腰を下ろしたのを見計らって、母が訊いてきた。どう話を切り出そうか迷っていたので、これ幸いと流れに乗る。 「ご相談があるのです」 「そう」 母は呟くと、手を振って女房達を下がらせた。女房二人が遠ざかってから母がうなずき、それを見て柊は口を開く。 「実は、忠晃様からお文が来ていたのです。でも、父上が女房達に命じて、私には知らせずに隠していて……。母上はご存じでしたか?」 母は相変わらず凜とした風情だったが、柊の話を聞くなり眉をひそめた。次いで、首を傾げる。 「知らないわ。殿が? 本当に?」 柊はほっとしながら、「はい」と返事をする。 母までもが承知しているとなると、説得は厳しかった。 「その……以前申し上げた、好きな方、というのが忠晃様なのですけど。父上は反対のようで……」 「まさか……だって、おまえ」 父と結婚についての話をした場には、母もいた。 母は考え込むように、人差し指の背を唇に当てていたが、やがて緩く首を振った。 「わからないわ。どうしてそうなったの」 「……好きなものは好きなのです」 嘆く母に泣きそうになりながら返すと、「違う」と優しい声で包まれた。 「おまえが忠晃殿を好いているということではなくて。なぜ殿が反対されるのか、ということ。……今さら何を」 言葉の最後は小さくてよく聞こえなかったが、母が冷たく言ったのだけはわかった。 柊は混乱した。母が反対していないのはわかったが、父の妨害になぜを問われるとは思わなかった。 「母上様は、許してくださいます? その、忠晃様とのこと」 柊が念を押すと、母は表情を引き締めた。つられて柊も姿勢を正す。 「よくお聞きなさい。陰陽師の位が上がってきたとはいえ、公卿である中納言の娘と結婚できるかといえば、普通はありえません」 陰陽寮内でどれほど出世しようと頭打ち。昇殿は許されても、それ以上はない。 滔々(とうとう)と厳しく語る母に、柊は唾を飲んだ。 「つり合いの取れない結婚は、なにかと噂されるものです。物笑いの種になるのは辛いですよ。――かといって、身分の高い相手と一緒になれば、幸せになれるとも限らない」 ここまで一気に喋ると、母は息を吐いた。もともと口数の多い人ではないから、疲れたようだ。 「おまえは事情が事情だから、きちんと理解してくれる殿方でないと。だからわたくしは、忠晃殿が婿殿になってくれた方が安心よ。とても難しいけれど、不可能ではないと思うわ」 母は話し終えると、柊の手を取って両手で包みこんだ。 「わたくしからも殿に頼んでみましょう。あと一刻もすればお帰りだから」 「ありがとうございます」 柊が頭を下げると、母は硬い表情を崩して微笑んだ。 「父上、どうしても駄目ですか?」 出仕から戻った父に時間を作ってもらい、忠晃との仲を許してもらえないか頼んでいる。 父は難しい顔をして、しばらく考え込んでいたが、やがてきっぱりと言った。 「駄目だなぁ。もともと身分が違う上、忠晃殿は今、微妙な立場におる。ことは簡単ではないのだよ」 「でも、それは私を助けてくれたからで――」 「もちろん、忠晃殿のみならず、賀茂の家には大恩がある。儂(わし)とてそれは忘れておらん。だが、今はとかく時期が悪い。中宮様に男御子(おとこみこ)が生まれるか、敦康親王(あつやすしんのう)様が東宮に立たれれば決着もつこうが……」 政(まつりごと)の話をされてもさっぱりだが、父に譲る気がないというのはわかった。 身分違いを言われてしまえば痛い。母にも、陰陽寮でどれだけ出世しても、公卿にはなれないから、つり合いは取れないと言われている。母が喩(たと)えた物笑いの種とは、柊のことだけではない。父や弟、屋敷の者達にまで及ぶ。 まして、娘の結婚相手に陰陽寮の学生を迎えたとなれば、父の評判は間違いなく落ちるだろう。政の場でどう影響するかもわからない。 でも母は、不可能ではないとも言った。 法で禁じられているわけではない。世間の、もろもろのしがらみから反対されているのだ。このしがらみが、一番やっかいなのだけれど。 「父上には、私と結婚させたい殿方がいらっしゃるの?」 率直に、他に婿がねがいるのかと訊いてみる。だが、父は苦い表情で首を振った。 「おらんが……」 そうだろう、と思う。いれば今頃、引き合わされているはずだ。 「では!」 「ならん。それでも駄目だ」 ![]() 父と二人で黙っていると、それまで口を挟まずにいた母が言った。 「殿。それではあまりにも惨くはございませんか」 突然冷たい声で責められて、父はうろたえたようだった。母は父の反応を気にせず、そのまま続ける。 「まだ文を送り合っているだけでしょう。それを阻むなど、忠晃殿に対してあまりにも不義理では?」 「それは……」 父は言葉に詰まった。不義理と言われてしまえば、その通りだ。父にもうしろめたさはあったようで、視線が頼りなく宙を泳ぐ。 対して母は、真っ直ぐに父を見つめて言い放った。 「殿方の政を、女に押しつけられても困ります。せめてお文くらいはお許しになってはいかがです? この屋敷に通わせているわけでなし」 母の発言にひやりとする。つい先日、忠晃が忍んで来たことは秘密にしたままの方がよさそうだ。 「しかし……」 なおも渋る父に、母は目を細めた。 「殿」 「わかった! ……わかった」 だんだん低くなっていく母の声に恐れをなしたのか、父は力なく脇息にもたれかかって、あっさり頷いた。やはり母は強かった。 続きは第4回更新へ! ![]()
|