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憎悪をこめた一瞥(いちべつ)をくれ、偽物は塀をこえて逃げ去った。
「隆家(たかいえ)様!」 「隆家様、お怪我(けが)を!」 家人が隆家をとり囲む。 「ひっ」 手当てのため呼ばれた女房(にょうぼう)は、隆家の傷を見るなり卒倒してしまった。 隆家の肩口の衣は大きく裂けて、べっとりと血で汚れていた。肉までえぐれたようで、奥歯をかみしめて耐えている。 男衆は口々に隆家の名を呼ぶ。 柊(ひいらぎ)も隆家のことは気になったが、それ以上に忠晃(ただみつ)が心配だった。 汗が噴き出た状態の忠晃は、浅い呼吸を繰り返している。顔は青白く、だらりと垂れた手には、血が伝った。 「忠晃様……?」 「大丈夫です。術を破られたので反動が……手を貸してくださいますか」 言われて、肩を貸した。忠晃は勢いが欲しかっただけなのか、立ち上がったあとは自分の足で隆家の所まで歩いて行った。柊は慌てて追う。嫌がられるかもと思ったが、忠晃の背中に手を伸ばして支えた。 「隆家様」 「おう、忠晃」 脂汗(あぶらあせ)をにじませた顔で、隆家は強気に笑った。 「傷を……申し訳ございません」 「言うな。見てみろ。それを言われては随身共(ずいじんども)の立つ瀬がないぞ」 隆家の言う通り、側に居ながら主人を守れなかった男達は悔しそうな表情だった。 「終わったのか?」 「いえ。ですが呪詛(じゅそ)の道具は見つけました。術者も逃げたので、お屋敷の中は静かになるでしょう。この先は術者を追います」 周囲から安堵(あんど)の息がもれた。隆家は柊に支えられて立つ忠晃を見て、眉をひそめた。 「車を用意させる。乗って行け。そのざまでは途中で倒れるぞ」 「いえ、そこまでは……」 「『はい』以外の返事は聞かんぞ。いいな」 いっそ傲慢(ごうまん)なほど強い口調で命じた隆家だが、忠晃を案じるがこそだ。 柊は隆家に深く感謝した。 隆家が用意してくれたのは、網代車(あじろぐるま)だった。 忠晃の顔色は悪い。呼吸こそ整ってきたものの、片腕は皮膚(ひふ)が裂け、しびれて動かないようだった。術が破られ、忠晃に返ってきたせいだという。 呪詛の道具である壺(つぼ)は、梓(あずさ)の木箱に入れ、上から塩を振った紐(ひも)を巻いている。紐の結び目は、特殊な形になっていて、封の意味があるのだとか。 箱に納められてからは、瘴気(しょうき)は感じない。車の端に箱を置き、柊は忠晃と一緒に車に乗り込んだ。 向かい合わせに座っていたが、消耗(しょうもう)した忠晃が体勢を崩した。 慌てて抱きつくように支える。 「すみません、いいですか」 かすれた声で懇願(こんがん)されて、慌てる。これはよほど具合が悪いのでは。 忠晃の意図する所もわからないままうなずく。 「はい」 ずる、と忠晃の体がくずおれ、柊のひざに忠晃の頭が乗る形になった。 忠晃は長く細く息をつく。 「どうかこのままで」 動く片腕で顔をおおう忠晃は、ひどく疲れた様子だ。ここまで弱った彼を見るのは初めてだ。憔悴(しょうすい)していようと、柊の前では気丈な人だった。 「……偽物だとわかっていても」 忠晃のつぶやきに言いたいことを察して、なぐさめるように彼の手をなでた。 偽物とはいえ、青丘(あおおか)と同じ姿をしたモノに傷を負わせたことがこたえているのだ。よく躊躇(ちゅうちょ)しなかったと思う。 胸が、苦しい。 忠晃がこんな風に甘えてくれて、嬉しいのだけれど、ここに至る過程が苦しい。 寄り添う意思を示すように、彼の指に指をからめ、手をつないだ。 青丘を大事に思うから、その忠晃の心がわかるから、苦しい。 「おーい、いちゃつくならもうちょっと明るくだな」 「黙れ」 最後まで聞かず、忠晃ははきすてた。八つ当たっているようだ。 茶化した青丘は、兎に変化(へんげ)して車に乗りこんでいた。三人だと狭いから、小さいものに化けろと忠晃が言った結果だ。 「柊殿、あれが何かわかりますか?」 忠晃がききたいのは偽物の正体だろう。しかし、柊は首をふる。 「わかりません。あちらはのぞけませんでした」 青丘は、自分が本物だと声を上げるように、柊を自分の内面に引き寄せたが、偽物からは弾かれた。 「匂いが、おかしかったな」 兎姿の青丘が、低く言った。 「匂い?」 「おう。俺と同じ匂いをさせてやがった。俺の皮でもかぶってんじゃねぇかと思ったぜ。気味が悪い」 は、と忠晃が気だるく息をつく。 「おまえ、皮をはがれたことがあるのか?」 「ねぇけど」 怖いこと言うな、と青丘はぶるりと身震いした。 「ただなぁ……、幽(かす)かに違う匂いも混ざってんだが、あれ、どっかでかいだことあるんだよな。すんげぇ懐かしい感じ」 郷愁を漂わせた青丘に、忠晃はうんざりした様子でうなった。 「その懐かしいはいつの話だ。百年前か、千年前か?」 「怒ると傷が開くぞー。……そうだなぁ、いつだったっけなぁ」 自身の記憶を探る青丘は自覚がないのか、心底愛しむような声をもらした。 賀茂(かも)家に着いて、忠晃はようよう牛車から降りた。車から降りる時こそふらついたが、隆家の屋敷を出た時と比べると、大分回復したようだ。気だるげだが、血色が戻っている。 「もう一度父と話し合って、偽青丘を追います。隆家様の屋敷から追い出した今なら、賀茂家総出で動けますから」 「はい」 忠晃一人では荷が重いのだろう。早くつかまえるなり退治するなりしないといけないのに、忠晃は傷を負っている。今日のことで余計に負荷がかかったはずだ。 「日が落ちる前にお帰り下さい。中納言(ちゅうなごん)様も心配なさっているでしょう」 本当は柊を先に送ってくれようとしたのだが、忠晃の怪我の具合を考えて賀茂家に向かってもらったのだ。忠晃はそれを気にしていた。 「はい」 素直にうなずく。柊も疲れていた。偽物を見破るために、視通(みとお)す力を使ったのだ。青丘は自ら招いてくれたから反動は小さかったけれど、それでも神経を削られている。 だが、帰る前に一つだけ、きいておきたいことがあった。 青丘は、一足先に呪具の壺を持って屋敷に入っていった。この場には柊と忠晃、隆家から借りた牛飼い童(わらわ)と随身(ずいじん)だけだ。話をするなら今だった。 「あの、忠晃様。青丘のことなのですけど……」 本当は口に出すべきではないのだが、どうしても気にかかっていた。 一瞬視えた、青丘の心に焼きついた情景のひとつ。 金色の毛並みの仔狐(こぎつね)。 「何です?」 「前に、青丘のことを、良い父親になると言ったら、傷付けてしまって……何か知っていますか?」 忠晃は表情を変えた。これは知っている顔だ。胃がしぼられる感覚にじっと耐えて、答えを待つ。 ふた呼吸のあと、忠晃はゆっくりと語り始めた。 「父も兄達も、代々青丘と関わってきた者は皆知っていますから、別に秘密ではないんです。ただ、青丘の前ではあまり話したくないので、ここだけに」 「はい」 「……青丘は、この国に渡って来る以前。外つ国(とつくに)で、子を亡くしたそうです」 柊は何も言えなくなった。そうか、と、納得だけする。 偽物を見抜く時、青丘ものぞいた。そこで視た、子狐がじゃれつく様を思い出していた。 青丘は吉備真備(きびのまきび)についてこの国に来たと聞いた。なら、子を亡くしたというのは二百六十年以上前になる。 長い間、青丘は何を思っていたのだろう。人間のそばで、何人も見送りながら。 「青丘の、探し人というのは……」 「青丘の妻です。探し人と言っていますが、厳密には人ではありません」 そんな予感はあった。何百年も探し続けているのだ、人であるはずがない。 「……話してくれて、ありがとうございます」 たぶん、忠晃もあまり口に出したい話題ではないはずだ。散々悪態をついても、ぞんざいな扱いをしても、青丘が大事なのだ。 「柊殿」 忠晃は柔らかく目を細めた。 「青丘は、気にしていません。どうか、今まで通りでいてやってください」 柊は、泣きそうになって微笑(ほほえ)み返した。 賀茂家を出て、一条から二条へ、西洞院大路(にしのとういんおおじ)を通って家に戻る途中、牛車が止まった。 柊は車の中から、牛飼い童に声をかける。 「どうしたの?」 「申し訳ございません! 車輪に何かがからまっておりまして……すぐに直しますゆえ、しばしお待ちを」 柊は車の外を窺(うかが)う。このあたりならわかる。日が落ちるにはまだ余裕があるし、屋敷はもうすぐそこだ。 物見から顔を見せ、牛飼い童を呼ばわった。 「もうここまで来たのですから、歩きます。手助けが必要なら、屋敷から人を呼びますし」 「いえ! そんな!」 牛飼い童は恐縮した様子だった。だが、柊は御簾(みす)を上げて車から降りてしまう。人が乗っていては直せるものも直せないだろう。 「良いから」 「いえ、姫。さすがにお一人にはできません。主人からくれぐれも大事にお送りせよと命じられております」 随身の一人が進言した。なるほど、下手に我を通すと隆家の顔をつぶすことになるのか。彼らもしかられてしまうかもしれない。 「……そうね。ごめんなさい」 謝ると、彼らはほっとしたようだ。 ばさばさと、うるさい鳥の羽音が耳についた。 白いみみずくが、牛車の屋根に止まって翼をばたつかせているのだ。忠晃の式神だった。 みみずくは羽音を立てない。式神がわざと羽音をさせているのは、警告の証だと、青丘が言わなかったか。 生ぬるい風が吹いた。儀式用の香と、墨の匂いに、柊は眉を寄せて大路の先を見る。 陽炎(かげろう)のような揺らめきの先に、外つ国の衣がひるがえった。淡い髪が揺れる。 ――青丘。 ![]() ひゅ、と喉が鳴る。 違う、あれは駄目だ。あれは青丘ではない。偽物だ。 炯々と光る偽物の眼光は、敵意に染まりねっとりと絡みついた。首のうしろがちりちりする。殺気だ。 狙いは柊か。それとも、隆家の屋敷の家人か。 「……逃げて」 小さく、隣にいた随身にささやいた。だが彼は首を傾げるだけで、柊の視線の先を追っても、何の反応もしなかった。随身や牛飼い童には視えていないのだ。 みみずくが飛び上がった。 つむじ風が起こって、砂を巻き上げる。目を開けていられなくなった。袖で顔を庇うが、風圧で身動きが取れない。 「ぎゃっ」 すぐ側で悲鳴が上がり、視界の端で白い羽根が舞った。 「ぐっ」 「がっ」 続いて男達の呻きが聞こえ、地面に倒れる音がした。血の匂いに、襲われたのだ、と理解して、確認しようとするも、風がやまない。 砂から顔を守るため、上げていた腕を強い力でつかまれる。 次の瞬間、がん、と頭に衝撃を感じ、柊は昏倒(こんとう)した。 次に目が覚めた時、柊はひどい頭の痛みを覚えた。視通した時に経験した痛みとは違って、側頭部がじんじんする。殴られたのだ。 ぼやけた視界が明瞭になってくると、目の前で微笑む女に気付いた。 女は、隆家の屋敷で見かけた卯の花襲(うのはながさね)の女房だった。 なぜ彼女が。 柊は偽の青丘に襲われたはずだ。隆家の屋敷に保護されたというわけでもない。 柊が寝かされていたのはあばら屋だ。隙間風が吹いており、穴の開いた屋根からは、光が差し込んで眩しい。傷(いた)んだ床はほこりがたまっていて、身じろぐだけできしみを上げる。 「お気が付かれたか」 透きとおるような声だった。 柊は起き上がり、女房を見つめる。 平凡な印象を受ける女房だったはずだが、今の彼女は強烈だ。 うすら寒い笑みに、凍りつくような視線。周囲に溶け込んでいた時とは違い、強い存在感を示している。 柊は震えをごまかすように声をかけた。 「貴女(あなた)は誰」 「お屋敷では萌黄(もえぎ)と呼ばれていたけれど」 違う、そうではない。柊の意図は伝わっているだろうに、あえてはぐらかす女房を睨(にら)む。 じっと彼女を見つめる。黒目がちな双眸(そうぼう)は、逆に柊を見返してくる。 瞳を入り口にして、内側へ。 (貴女は何者なの) 黒い瞳がとろりと色を変えた。女房の輪郭がぼやけ、長い黒髪が金色に染まる。 琥珀(こはく)をはめ込んだような瞳。光を受けて白く輝く金の体毛。すらりとした四足に、九つの尾が揺れる。 ――九尾の狐。 驚いて瞠目(どうもく)する柊に、女房はゆっくりと目を細めた。 続きは第9回更新へ! 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