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柊(ひいらぎ)を乗せた牛車が、二条中納言(にじょうちゅうなごん)の屋敷に向かうのを見送って、忠晃(ただみつ)は自室に戻っていた。
「術を返された? 馬鹿かおまえ。そりゃ気合いだけで縛ろうなんて、おまえには無理だろう。ぶっつけ本番苦手なんだから、自覚しろよ落ちこぼれ」 にこにこと笑いながら辛辣(しんらつ)に毒を吐く次兄に、忠晃は半眼になった。 偽青丘(にせあおおか)を縛ろうとして術を返され、自分にかかってしまった縛りを解くのに手を借りようとしたら、ざっくりと刺されたのだ。 垂れた目元と、常に微笑しているような表情のせいで、兄弟の中では一番柔和そうな顔をしているくせに、快活さの中に潜む棘(とげ)は鋭く硬い。 「死ななくてよかったな、落ちこぼれ。逆さの風は、けっして穏やかには吹かん」 さきほどから、落ちこぼれ、落ちこぼれとやかましい。人の劣等感をこれでもかと思い出させてくれる。 忠晃は気(け)だるく息をついた。全身が重く、皮膚(ひふ)が裂けた腕は痛みが酷(ひど)いくせに、痺(しび)れて動かなかった。以前に受けた傷もあって、油断すると、意識がぐらりと揺れる。 術、というのは諸刃(もろは)の剣で、失敗すれば己に返ってくる。成功したとしても、相応の報いがある。呪(のろ)いと同じだ。それを「逆さ風」や「逆凪(さかなぎ)」と呼んでいる。 だから術者はそれを防ぐ術を持っているか、絶対に成功する場合にしか術を使わない。 忠晃も自分の力量を把握し、慎重だったが、今回は焦りで負けた。自覚があるだけに反省していたところを、容赦なく指摘されたのだ。痛いどころではない。 「……気をつけます」 父は青丘と話し込んでいるし、長兄は妻の家で世話になっていてこの屋敷にはいない。 すぐに頼れるのが次兄だけだったので、忠晃は特に反論もせず、中途半端に返された縛呪(ばくじゅ)を解いてもらった。 「一応、父上にも見てもらえ。青丘が放っておいたなら、大丈夫とは思うが」 「はい」 次兄はなんだかんだ言いつつも、忠晃の傷に薬を塗り、包帯を巻き直すところまで世話を焼いてくれた。面倒見は良いのだ。快活さの中に毒を持っているだけで。 「仕留められなかったようだな」 「ええ、柊殿にも正体がわからなかったようで……っ」 ばちん、と竹が破裂するような不快な衝撃が、体の内側に響いた。息が詰まる。 なんだ、この、四肢の末端を失ったような感覚は。 答えは一つ、式神が消されたのだ。方角は南西。場所は二条の通りに近い大路。 「忠晃?」 訝(いぶか)しげな次兄の声。忠晃は呆然(ぼうぜん)と呟(つぶや)いた。 「……柊殿が」 念のためにと、柊に付けていたみみずくが、消えた。 忠晃ははだけた衣を直しながら立ち上がり、弾(はじ)かれたように部屋を出た。次兄の引き止める声がしたが、応(こた)える余裕はない。 傷が痛み、真新しい包帯に血がにじむ感触がした。息が上がる。だが、そんなことはどうでもいい。 まさか、式神が消されるまで異変に気付かないとは。 衝動に任せるまま屋敷を出ようとすると、透渡殿(すきわたどの)で反対側からやって来た青丘と鉢合わせた。 「まずいぞ忠晃」 そう言う青丘が真ん中に立つせいで、通れない。忠晃はいらだちをぶつける。 「ああ、まずい。だからさっさとそこをどけ!」 青丘は怒鳴られても表情を変えなかった。道を譲りもしない。 「おい、落ち着け。何があった?」 うしろから次兄が追いついてきて、立ち尽くす二人を見てなだめた。普段なら青丘の役目だが、青丘は常になく落ち着かない様子で、冷静さを欠いていた。 「思い出したんだ」 青丘は呆然と言った。忠晃は要領を得ない話にいらつき、また怒鳴る。 「だから何をだ!?」 「匂いだ。俺の偽物に混じった、別の匂い。――あれは俺の妻のものだ」 忠晃は一瞬、怒りを忘れ絶句した。 青丘が海を渡ってまで捜し続けていた妻は、青丘と同じ、尾が九つある狐だ。 何百年も前、青丘と袂(たもと)を分かった九尾は、人を憎んでいるという。 九尾の狐。 字のまま、尾が九つある狐のことだ。 尾の数は力の強さを示す。賀茂(かも)家の飼い猫のように、歳(とし)を経てただの獣ではなくなり、尾が裂けて増えていく。とても強大な存在だ。 ![]() しかし、別の面がある。 外つ国で、古(いにしえ)の王朝を傾け、滅ぼしたのが九尾の狐だと言われているのだ。また、国を変え、時代を変え、たびたび国の存亡に関わっていたといわれている。 青丘は、吉備真備(きびのまきび)について日本に来て以来、警告し続けていた。 妻である金毛の九尾は、人間に強い怨(うら)みを持っており、もはや瑞獣ではない。現れたのならば、この国はただでは済まない――と。 「よもや金毛の九尾が現れようとは……」 「藤原隆家(ふじわらのたかいえ)様のお屋敷が狙(ねら)われていたと……」 「いや、今は二条中納言様の姫じゃ!」 「すぐに祈祷(きとう)の壇を!」 「御上(おかみ)に奏上せよ!」 金毛の九尾が関わっているということで、賀茂家のみならず、安倍(あべ)家、陰陽寮を巻き込んだ騒ぎとなった。 ばたばたと走り回る周囲を横目に、忠晃はほぞを噬(か)む思いだった。 もう少し早く正体がわかっていれば。いや、あの時、先に柊を送っていけば、こんなことにはならなかった。 あのあと、式神が消えた場所に駆け付けた。だが、すでに柊の姿はなく、残されていたのは空の牛車と、気を失った随身(ずいじん)、牛飼い童(わらわ)だけだった。 「忠晃、おまえは休んでいたほうが……」 忠晃の傷を案じたのか、次兄が声をかけてきた。忠晃は首を振る。 「いえ、どうか柊殿を見つけるまでは」 腸(はらわた)が煮えくり返る。ともすれば、指先が冷えて震えた。 金毛の九尾に、そしてそれ以上に自分に怒りを感じていなければ、立つこともできない。恐怖と不安で押しつぶされそうになる。 柊の居場所はわからない。 陰陽寮の誰が占っても、妨害されているのか結果が曖昧(あいまい)だった。 「ひどい面(つら)だな」 「青丘」 柊の匂いを辿っていた青丘が戻って来た。忠晃の顔を見るなり笑って見せたが、青丘の方がひどい顔色だった。 「どうだった?」 一縷(いちる)の望みにかけて問うが、青丘は首を振った。 続きは第10回更新へ! ![]()
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