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散々泣いて、泣いて、声が嗄(か)れた頃に、ようやく涙が止まった。
気持ちが落ち着いたわけではない。泣くのに疲れてしまっただけだ。 柊(ひいらぎ)より先に涙を止めた忠晃(ただみつ)は、あやすように柊の背を撫(な)でた。触れあった互いの体温が熱い。泣きやんだばかりの不安定な心には、心地よかった。 「……柊殿。お父上に、二条中納言(にじょうちゅうなごん)様に、貴女(あなた)との結婚を申し出ようと思います。藤原(ふじわら)に恩を売り、後ろ盾もできたことですし」 柊は、袖(そで)で目元を拭(ぬぐ)いながらうなずいた。父が結婚を反対していた理由は、身分違いであることと、何より、忠晃が一部の公卿(くぎょう)からにらまれている状況からだった。藤原の後ろ盾が得られたなら、父も納得するだろう。 「ですが、私に都での出世はありえません。生涯を下野国(しもつけのくに)で過ごし、骨を埋(うず)めます。藤原の後ろ盾も、おそらくこの婚姻のためだけに終わるでしょう。そして、婚儀が終わり次第、貴女も共に来ていただくことになる」 わかりますか、と忠晃は問いかけてきた。 つまり、柊も一緒に下野国で生きることになる。都には戻れない。そういう意味だろう。 「それでも、かまいませんか」 これは、最後の確認だ。今ならまだ、引き返せるのだと。 でも、何の問題があるのか。 「一緒に行きたいです」 間をおかず答える。都暮らししか知らない柊だけれど、忠晃が一緒なら、どこでもいい。 一度は、忠晃の負担になるのではないかと悩んだ。でも、結局は、彼から離れて生きていたくなかった。 「忠晃様。私、貴方(あなた)の負担になっても、貴方といたいです」 もう迷いはない。だって、青丘(あおおか)も言っていた。 おまえは間違うな、と。 青丘の失敗は、選んだ道を間違えたことじゃない。自分の心を測りかねたことだ。 「……馬鹿(ばか)ですね」 ため息と一緒にそんなことを言われたけれど、常の悪態も、今は甘く聞こえる。 こちらを見つめる忠晃の目が、あんまり優しいものだから、柊は笑み崩れた。 忠晃が下野国に発(た)ったあと、柊はようやく床から起き上がって自由に動けるようになった。 「ご心配をおかけいたしました」 久しぶりに顔を合わせた父に、手をついて頭を下げる。父は優しく目元を緩(ゆる)ませたが、顎(あご)の線が細くなっていた。それだけ心労をかけていたのだ。 「無事で、何より」 万感こもった一言に、ただただ頭を下げる。 止める父の言葉を聞かず無理をした結果、倒れたのだ。叱(しか)られてもおかしくないのに、父は「よくやった」と労(ねぎら)ってくれた。今も、病み上がりではつらかろうと、話をするのに柊の部屋まで足を運んでくれている。 「柊。此度(こたび)の件、隆家(たかいえ)殿のみならず、左大臣までお褒めの言葉をくださった。忠晃殿が、一番の功労者としてな」 「はい」 九尾(きゅうび)は藤原の血筋を絶やさんと狙(ねら)っていた。隆家の屋敷も、元凶であった彼女が封じられ、平和を取り戻したことだろう。 「そこで、だ。忠晃殿から、婚姻の申し入れがあった。儂(わし)は受けてもかまわんと思うが、そなたはどうじゃ?」 「もちろん、お受けしたく思います」 柊がはっきり口にすると、父は苦笑して、情けない顔で目を伏せた。 「すまなんだな、柊。散々、反対しておいて、手の平を返したと思っておろう」 「いいえ、いいえ」 衆目を気にしていたのは、保身のためだけではない。柊のことを案じるがゆえだ。 父は、父なりに、柊の幸せを思っていてくれたのだろう。だって、問答無用で他の男と一緒にさせることもできたのに、しなかった。 「ありがとうございます」 柊は手をついて、頭を下げた。 柊は総領娘だ。婿(むこ)を迎えて子を産む務めがあった。しかし、忠晃と結婚するということは、両親の手元に孫を残すどころか、都からもいなくなる。 それを承知してくれたのだ。もはや、感謝しかなかった。 婚儀の用意は、つつがなく進行した。 はりきっていたのは母や女房(にょうぼう)たちで、あれこれ髪箱や櫛(くし)や鏡に文句をつけ、できるだけ良い物を、と職人に作らせてくれた。 婚儀自体は伝統にのっとり、この家に忠晃を婿として迎える形を取るが、その婚儀の後は柊が都の忠晃の元へ行くことになる。離れてしまう柊に、せめてしてやれることを、という親心だった。 下野国に行った忠晃の帰りを待って、吉日を占い、指折り数えているうちに、その日は来た。 婚儀の一夜目。 柊は自分の部屋でまんじりともせずに、忠晃を待っていた。 「……はぁ」 緊張でどうにかなってしまいそうだった。心の臓がうるさい。 今までだって、忠晃とは御簾(みす)を介さず会っているし、口付けも交わした。何てことはない、大丈夫、と自分に言い聞かせても、やはり婚儀となると気持ちが違う。身の回りの道具が全て新しいことも、落ち着かない気分にさせた。 「柊殿」 「はい!」 反射的に声を上げて、薄暗い中で忠晃を見上げ、ほっと息をつく。 彼の姿を見た途端、ふわふわと浮き足立っていた気持ちが落ち着いた。 なんだ、ぜんぜん、怖いことなんかない。 「何です?」 「いえ。忠晃様を見ると、安心します」 「……この状況でそれは、喜んでいいのかどうか」 忠晃が苦笑する気配がした。彼も緊張しているのか、言葉に毒も棘(とげ)もない。 「柊殿。これより永く、付き合っていただくことになります。どうか、最後まで共に」 胸が熱くなって、頰(ほお)が緩む。感極まって、泣きたいような気分だ。頰に添えられた忠晃の手の上に、そっと手を重ねてうなずいた。 それから七年。 下野国に居を据え、二人の子宝に恵まれて、柊は忠晃と共に九尾の封印を見守り続けている。 「どうでした?」 封印石の様子を見に行った夫が帰ったので、きくと、彼は首を横に振った。 「毒気は収まりましたが、このまま鎮まっていてくれるかどうか」 青丘と九尾が眠る封印の石は、時折、毒の霧をまき散らすことがあった。 原因はわからない。九尾の怨念(おんねん)ゆえか、封印術の反動か、それとも土地のせいか。わからないまま、忠晃はその度に毒を吹き飛ばし、新たに縄をかけ、祝詞(のりと)を捧(ささ)げる。 あとはひたすら、ただ見守った。 そんなことを七年繰り返したが、九尾復活の気配はなかった。もちろん、青丘が目覚める兆しもない。 柊は裁縫の手を止めて、封印石のある方角を見る。 一度だけ、石に触れて視通(みとお)そうとしたことがあるけれど、叶(かな)わなかった。内側に潜らせないほど、強固な守りだった。 自分たちが生きている間は、目覚めないだろうという予感があった。それは忠晃も感じているようで、子供たちにどう伝えていくものか、ずっと考え込んでいる。 「……戻ったか」 ふあぁ、と大欠伸(おおあくび)をしたのは、賀茂(かも)家で飼っていた三毛の化け猫だ。そばで昼寝をしている子供たちと一緒に、でっぷりした体を横たえていたのだが、起きたらしい。 この化け猫、下野国までついてきたのかと思いきや、違う。どうやら、都の賀茂家と忠晃の連絡役にされているようだ。ふらりと現れては、消える。 「言伝(ことづて)は?」 「つつがなく――と」 化け猫は鷹揚(おうよう)にうなずくと、ゆったりとした足取りで去っていった。 「もし、青丘と九尾に言伝を残すなら、どうします?」 手にした針を再び動かしながら、隣に腰を下ろした忠晃にきいてみた。 「決まっているでしょう」 面倒をかけてくれて、と。 目覚めるのが遅い、と。 忠晃が挙げたのは、文句だった。 柊は声をたてて笑った。 もし、青丘の目覚めを見届けられなくても、悲観することはない。 子が、孫が、柊や忠晃の伝えたかったことを預かってくれるなら。 いつか、目覚めた青丘がそれを受け取ることを思えば、とても幸せだ。 了 ![]()
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