WEB限定小説
『サン・ピエールの宝石迷宮』特別番外編
「王子の指輪」
篠原美季
(きれいだな……)
差し出された手に見えた指輪があまりにきれいで、僕はとっさに目を離せなくなった。
金色に輝く台座。
その上で魅惑的に光るボトルグリーンの宝石。
エメラルドのようにはっきりした美しさを持つ色ではないのだが、くすんだ色合いがなんともいえない独特の深みを帯びていて、光を内包してあやしく揺らめく感じがとにかくいいのだ。
(これって、なんの石なんだろう?)
指輪に見入ったままぼんやり考えていると、不意に両脇に手を入れられてグイッと体を起こされた。
しかも、かなり乱暴に――。
そう思ったのは僕だけではなかったようで、差し出した手を引っ込めた貴公子が咎めるように言った。
「エメ、相変わらず乱暴だな」
「仕方ないでしょう。貴方の差し出した手を無視して座り込んでいたんです。てっきり腰でも抜かしているのかと思って起こしてやったんですよ。これ以上ないというくらいの親切心じゃないですか。――それをまあ、言うにことかいて『乱暴』とは聞き捨てならない」
頭上で交わされた会話のどちらにも理があったが、当事者の僕はそれをどうこう思っていられる立場ではなかった。
忘れていたが、僕は食堂の入り口で人に押されて転び、目の前の人物が「大丈夫かい?」と言いながら手を差し伸べてくれたのだ。
ただ、その人物というのが、かなりやばい人だった。
純金のように白々と輝く髪。
黎明の青さを思わせるサファイアブルーの瞳。
この世のものとも思えない美貌と優美さを待つ彼の名前は、リュシアン・ガブリエル・サフィル=スローン・ダルトワ。
比喩でもなんでもない、正真正銘、一国の王子、ヨーロッパの小国アルトワ王国の皇太子である。
当然、学院内でも知らぬ者はいないというほどの有名人で、かつ最重要人物として数々の特別待遇を受ける身だ。ついでに言うと、「エメ」と呼ばれた鋭い眼光の持ち主は、彼の従者兼護衛として抱き合わせ入学した生徒であり、伝え聞くところによると、彼はその眼光で人を殺せるらしい。
ともあれ、そんな人が親切心で差し出してくれた手を、僕は無視して座り込んでいた。これ以上まずい状況はないだろう。
(ああ、僕の学院生活は終わった――)
ここは、永世中立国スイスにあるサン・ピエール学院。
世界中から金持ちの子息が集まる全寮制私立学校(インターナショナルボーディングスクール)の一つで、その中でも珍しく男子校だ。
ゆえに、話題の中心はヒロインではなくヒーローばかりとなる。
今もそうだ。
あの後、朝食のテーブルについた僕が漏らした感想に対し、入り口での騒動を遠目に見ていたらしいルームメイトたちが、口々に応じる。
「たしかに、終わったな」
「うん。終わった」
「あんなポカンとした顔で王子を見つめていたら、そりゃ、エメに目をつけられるって」
「そうそう」
「噂では、エメって閻魔帳を持ち歩いていて、そこには不用意に王子に近づこうとした生徒のデータがびっしり書かれているらしいよ」
「うわあ。――なら、今のうちに、君のご冥福を祈るよ」
あまりに勝手なことを並べ立てられ、僕は「でも、違うんだ」と反論する。
「ポカンとしてしまったのは、あの人の顔に見惚れていたわけではなく、指輪があまりにきれいだったから」
「ああ、『王子の指輪』ね」
「そうか。あの指輪を近くで見たのか。そりゃ、羨ましい」
みんなの興味が指輪に移ったので、僕は首を傾げて問いかける。
「え、あの指輪って、そんなに有名なの?」
「そうだよ。当代の『学院の七不思議』の一つに挙げられるくらいだし」
「当代の『学院の七不思議』?」
初耳だった僕は、訊き返す。
皇太子がつけていたのは、いわゆるスクールリングであったが、購買部で注文できる大量生産のものとは違い、明らかに腕のいい職人が制作したと思われる精緻な彫刻が施されていた。
ゆえに、同じデザインでも格が違って見えたのだろう。
ルームメイトが言う。
「ほら、この学院のスクールリングって、石を自由に選べるから、みんなそこで自己主張というか、他の人との差別化を図ろうとしているだろう?」
「そうだね」
「で、皇太子の場合、どう考えてもサファイアのはずなんだけど」
「そうそう。それこそ、スターサファイアとかな」
「え、なんで?」
なぜサファイア限定であるのかわからなかったから訊いたのだが、みんなは呆れたように「そんなの」と口を揃えて言った。
「サフィル=スローンだからだよ。決まってんじゃん」
「サフィル=スローンだから?」
「それに、あの瞳の色が全てを物語っているだろう?」
それでもわからずにいた僕に、ルームメイトの一人が説明する。
「サフィル=スローンの『サフィル』はフランス語でサファイアを意味するサフィールが由来と言われているんだ。もともと、彼の先祖である『サフィル家』の人たちには、サファイアのような瞳を持つ人間が多かったらしい」
「へえ」
納得した僕に、「それだというのに」とそのルームメイトは力説した。
「なぜか、彼は名前に由来するサファイアではなく、モルダバイトのスクールリングをしているから、みんな『どうして?』って、不思議がっているわけだよ」
「そうそう」と呼応した別のルームメイトが「なんでも」と付け足した。
「あの学年の他の人たちは、皇太子に遠慮してサファイアを身につけるのを避けているという話なのにね」
「そうなんだ。――たしかに不思議だね」
相槌を打ちながら、僕は密かに「なるほど、あの石はモルダバイトというのか」と頭の隅にメモする。あの魅惑的な輝きを放つ石を、できれば僕も、いつか手に入れたいと思ったからだ。
その間も、ルームメイトの話は続く。
「ちなみに、上級生の話では、モルダバイトは、一部のヨーロッパの王侯貴族の間では恋人に捧げる風習がある石らしく、実は、王子様にも国に指輪を交換し合うような恋人なり婚約者なりがいるのではないかって噂もあるみたいだよ」
「へえ、ロマンチック」
そんな話で盛り上がった日の午後。
僕は、担当教授との面談に遅れそうになり、人気のない校舎の中庭を走って抜けようとしていたのだが、十字路に差し掛かったところで人とぶつかってしまい、相手と絡み合うように倒れ込んでしまう。
「うわ」
「わあ」
二人の悲鳴が交差し、相手は尻餅をつき、僕がそんな相手に乗り上げるような形で間近に互いの顔を見つめ合う。
とたん、僕は謝ることも忘れて彼の顔に見入ってしまった。――正確には、その瞳に釘付けになったのだ。
揺らめく光を内包したようなボトルグリーンの瞳。
それはあやしいまでに美しく、頭の中で「王子の指輪」と重なった。
すると、静止した時間を動かすように、すぐ近くで声がする。
「ルネ、大丈夫かい?」
もちろん、僕を心配するものではなく、僕がぶつかってしまった相手を気遣う声である。
それに応じて顔を上げた僕の前には例の皇太子の姿があり、僕がぶつかってしまった相手を助け起こそうと手をのばしたところであった。
ほぼ同時に、僕のほうも両脇に手が差し込まれ、乱暴に抱え起こされる。
(デジャ・ビュ)
思った時には、背後から皮肉げな声がした。
「いい加減、自力で立ち上がれるようになってもらわないと、仕事が増えて困るんだけどね」
恐る恐る振り返ると、やはりふたたびのエメだ。
「ああ、すみません」
慌てて謝ったが、今度は皇太子も庇ってはくれず、むしろ「たしかに」とうなずいて言った。
「君は少し落ち着きに欠けるかもしれないね」
すると、「ルネ」と呼ばれた生徒が「あ、でも」と言う。
「僕も、前を見ていなかったから」
それに対し、エメが「知ってます」と冷たく応じる。
「ただ、そっちは慣れっこですから、今さらどうこう言う気も起きませんよ」
僕と同じように縮こまったルネを庇って、皇太子が文句を言う。
「エメ。ルネが前方不注意になったのは僕が呼んだからだし、それ以前の問題として、君のその口のきき方は――」
だが、最後まで言わせず、エメは「はいはい」と手を振っていなした。
「黙ってろと言うんでしょう。だから、黙って仕事をしてますよ。ただ、このままだんまりを続けていると余計な仕事がどんどん増えそうで、末恐ろしい」
(えっと……)
彼らのやりとりを聞きながら、僕は戸惑いを隠せない。
皇太子に対して、こんな態度を取れるなんて――。
(この人、本当に従者なのか?)
ああだこうだ言いながら歩き去っていく彼らの後ろ姿を呆気に取られて見送った名も無き一般人の僕は、やっぱり同じ学校にいたとしても王族のことはまったくわからない、としみじみ思う。
ただ一つ言えるのは、サン・ピエール学院は、こんな風に現実と非現実が交錯する、ある種、おとぎ話に出てくるような場所だということだ。