『桜花傾国物語 花の盛りに君と舞う』番外編
「友を救うに走ること」
東 芙美子
平安の宮中は暗い。
特に夜ともなると、自らの指すら定かに見えぬ暗闇が支配する。
ドガ……ッ!
廊下をすり足で走る従者のひとりが、暗がりで殴り倒された。
「あっ!」
助けを呼ぶ声を出す前に気を失いかけた従者は、袖に忍ばせていた紙片を床へと滑らせた。
――これを、誰かが見つけてくださいますように。誰かが!
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蔵人・藤原清音(ふじわらのきよね)の従者・重葉(しげは)が突然姿を消したと聞いて、花房と賢盛(かたもり)は目を見合わせた。
「……清音殿、これは何かの諍(いさか)い事に巻き込まれたとしか」
「ああ」
花房の問いに、行方不明になった配下を案じる藤原清音がうなずく。その手には紙片があった。重葉の好んで使う香が焚きしめられたもので、隅に「清音様」と書かれていたために、清音の手元に届いたのだった。
手渡された紙片を眺めてみても、他に何か書いてあるわけではない。賢盛は香をかぎながらつぶやいた。
「咄嗟に目印として落としていったか……」
藤原清音は花房の同僚で、清廉潔白な人柄で知られる男だ。その従者である重葉も真っ直ぐな気性であり、その正しさゆえに諍い事に首をつっこみかねなかった。
「賢盛、これは大事だ。もう――」
「皆まで言うな。すぐに捜すからな」
あせる花房を、賢盛がさえぎる。
賢盛は重葉と親しく、彼が何をさぐっていたのか知っていた。宮中に仕える女房や侍童が攫(さら)われる事件が相次ぎ、蔵人の清音が調べを任されており、宮中の情報を実際に集めていたのは重葉であった。
「人買いの連中に、重葉も攫われたのか」
賢盛は従者が詰める控えの間へ駆け込むと、その場で一番の悪党といわれる者の襟首をガッと摑んだ。
「おい。お前、知ってるな?」
「なななな、何を」
男が蒼ざめて手足をばたつかせた。
「知ってることを全部吐け」
「ここでは嫌だ」
「ならば裏で」
賢盛は男をひきずって外へ出た。それからいくらもしないうちに、殴る蹴るの鈍い音がしたことは、宮中の秘密のひとつとして目を瞑っておく。
賢盛が聞き出した情報は、上卿のひとりが人攫いの首領であるという事実だった。
「どうしよう、賢盛。清音はそれを重葉に調べるよう頼んだのだろう。しかし……」
うろたえる花房を賢盛は制した。
「俺が重葉を助けにいく。そして攫われたほかの連中も」
言うが早いか、賢盛は花房を宮中に置いて去っていった。
あとに残された花房は、不安半分、ぽつりとつぶやく。
「ええっと、それはよいけれども……私の世話は、誰がしてくれるのかな?」
――それはお前の旦那に頼め。
賢盛が聞いていたらそう言い返すところだ。
今の花房には密かに結ばれた最愛の夫がいる。賢盛もそろそろ、従者の立場を超えて動く役割から解放されつつあった。
賢盛は、京の裏道を四条へと下った。
――重葉は宮中で俺に次ぐ美貌だ。捕まったが最後、どこかへたたき売られるに違いあるまい。
勢いのまま、荒くれ者どもが博打をする館の一角へ押し入った賢盛は、ひと言の反抗も許さぬ勢いで彼らの手を止めた。
「おいっ、てめえら、重葉って従者がどこに放り込まれたか知ってんだろう」
京の都でも極上の容貌でありながら最凶の男――と名高い賢盛に押し込まれ、悲鳴とも歓声ともつかぬ声があちこちで上がる。
「これ、アレだろ」
「アレでしょうなあ」
「絶対に喧嘩したくない相手だよなあ」
荒くれ者たちが、小声でささやき合う。
それを聞き流して、賢盛はポンと軽く手をだした。ひらりと転ばせた目の前の男の襟を摑むと、笑いながら睨む。
「さ。吐いていただきましょうか」
賢盛の眸がギラリと光るのを見れば、いかなる男も死を覚悟するしかない。
賢盛は再び駆けていた。夜に灯りのない京の道を、まずは駆けた。
――まさか、あの館じゃなかったとは。しくじった!
重葉が売られた先は、いずこか。
「俺を、どこまで走らせるっ」
暗がりの中で手がかりなどあろうはずもない。
重葉だけではない。今から賢盛が向かう先はおそらく、宮中の女房や侍童が攫われた先でもあるのだ。彼らの心細さを思えば、息を切らせて文句を言いながらも、一刻も早く、と助けに走らずにはいられない。
ふと、覚えのある重葉の香りがした。
――こっちか?
微かな残り香を聞きながら、賢盛は闇路を辿った。
――この香の先に、重葉はいる!
ようやく荒れた館へと足音を忍ばせ、歩み寄る。すると中から、いくつもの微かな悲鳴が聞こえてきた。
今助ける、と賢盛は乱暴に門を蹴破り、館へと押し込んだ。
するとそこには、荒くれ男たちに押さえつけられた女房と侍童、そして彼らを護ろうと抵抗する重葉の姿がある。
「重葉!」
名を呼ぶと、友が振り返った。その顔がみるみる紅潮する。泣く寸前だ。
「泣くな! 俺が来てやったからには、あとは楽勝だ!」
賢盛は悪党たちの面を素早く叩くと、囚われていた友と、女房と侍童を抱えて逃げた。
「ここまでよく頑張ったな、重葉」
悪党の巣から逃げおおせたところで、賢盛は改めて重葉の肩を抱いた。友は自分ほど腕っぷしが強くはない。先に攫われていた女房や侍童たち十数人の身を、一人で護ってきたのは奇跡にちかい。
「お前、なんて凄いの?」
「でも、賢盛が来てくれなかったら……」
重葉が言葉を詰まらせた。
――俺もお前を救うために、走ったよ。
「泣くなって、言っただろうが」
「……そっちこそ」
泣き笑いの重葉に言われて初めて、賢盛は自分の頰にも温かい水滴が伝っていることに気づいた。
友が命をかけて正義を護ろうと戦っていた事実に、自分でも信じられないくらい心を揺さぶられたのだ。
「鬼の目にも涙、か」
重葉がしみじみと言う。
「誰が鬼だと!?」
ムッとした表情をつくりつつ、賢盛は手のひらでわざと雑に顔をこすった。
こんなふうに我を忘れたのも、友のために全力で走ったのも、ひどく久しぶりのことのように思えた。
これが――花房も知らない、
最凶の男が生まれて初めて泣いた、ある夜の話。
了
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著者からみなさまへ
ついに完結巻です。平安ロマンを書くため、私は平成の世の中を捨てて書室に籠もりました。陰陽師の場面を書きますと、部屋どころか家中にコロコロする音が! これは、現代語だとラップ音ではありませんか。流石に怒りました。悪しきものよ去れ! ……無事に去っていただいて、陰陽師はこのように悪を祓うのねと実感いたしました。このような実体験もございまして、ギリギリ何とか平安時代にたどり着いた次第です。お楽しみいただければ幸いです。