「少年花嫁」より 秋の宵だった。 妖(あやかし)の色町、遊糸城(ゆうしじょう)。その一角にある妓楼(ぎろう)、玉風楼(ぎょくふうろう)。 妓楼はすべて二階建てで、一階の通りに面したところに張見世(はりみせ)があり、格子ごしに並んで座った女郎たちが見える。 張見世の横の入り口から入ると、土間の横の大階段が見えてくる。大階段を上るとそこが引付部屋(ひきつけべや)。遊女が客の酒肴(しゅこう)の相手を務める部屋だ。 そのほかの部屋は遊女部屋。売れっ妓(こ)ともなると、自分の部屋のほかに座敷も持っていた。 そんな玉風楼の奥座敷で、松浦忍(まつうら しのぶ)は正座したまま、綺麗な茶色の目を見開き、固まっていた。 藤色の振り袖を着せられ、豪華な帯は郭(くるわ)のしきたりに従って前で結ばれている。栗色の髪は結っていない。 側には、赤い着物におかっぱ頭の小さな女の子――禿(かむろ)が二人いる。片方は狐の耳と尻尾を生やし、もう片方は河童のような顔をしている。 (なんで、こんなことになっちまったんだよ……!?) 時刻は、忍の感覚では午後八時くらい。 目の前には、客である美貌の青年が座っていた。王子のように整った顔だちだが、どこか軟派な印象がある。粋な茄子紺(なすこん)の着物を着て、優雅に扇子を手にしている。 鏡野綾人(かがみの あやと)。 大蛇(おろち)一族の当主で、現在のところは玉風楼の松の位、忍太夫(しのぶたゆう)の初会の相手である。 ことの起こりは、三日前のことだった。 よく晴れた湘南の海辺を歩いていた忍は、波打ち際でハマグリを見つけたのだ。 ――わーい、ハマグリ見っけ! 食い意地の張った忍が手をのばしたところ、ハマグリは突然、巨大化して、ぱくっと忍を呑みこんでしまった。 後でわかったが、忍を呑んだのは蜃という大ハマグリの妖だったのだ。 ここは蜃のなかにある妖の色町、遊糸城。 遊糸城に迷いこんだ忍は妖たちに捕らえられ、玉風楼で花魁(おいらん)として売られることになってしまった。 忍の婚約者で、御剣香司(みつるぎ こうじ)がすぐさま追いかけてきて、妖たちに忍を返せと迫った。 だが、玉風楼の主人は難しい顔で首を横にふった。 ――ただで返せとは、ご無体なお話でございますなあ。 主人はでっぷり太った着物姿の妖で、蝦蟇(がま)に似ている。見るからに因業(いんごう)そうな男だ。 ――金か。金なら払う。……ああ、人間界の金ではダメか。では、うちに伝わる貴重な香木をくれてやる。これ一つで、千両箱三つの価値がある。 香司が出した香木の塊を見、妖はニヤリと笑った。 ――郭のしきたりがございます。三回通って、お馴染みさまになっていただくまでは、どれほど金子(きんす)を積まれても身請けさせるわけにはまいりませんなあ。 香司は、憮然とした。足もとを見られているのはわかっている。しかし、ここで引き下がるわけにはいかなかった。 ――わかった。三回通おう。そうすれば、忍は俺のものだな? ――もちろんでございますとも。 そんなやりとりの後、香司は昨日の晩、不安で半泣きになっている忍の座敷を初めて訪れたのだ。 そして、かならず請け出すと約束して帰っていった。 だから、今夜も香司がくるのを待っていた忍だった。 それなのに、どうして目の前にいるのは綾人なのだろう。 「忍さん、びっくりさせて、すまないね」 穏やかに微笑んで、綾人が言う。 初会ということもあって、二人のあいだには硯箱(すずりばこ)、煙草盆(たばこぼん)などが置かれ、近づくことはできないようになっている。 綾人の前には立派な金蒔絵(きんまきえ)の盃が用意されているが、これは初会は手を触れない決まりである。 「オ……私がここにいるって、どうしてわかったんですか?」 愚問のような気もした。綾人にわからないことがあるとは思えない。 「うん。ある筋から事情を聞いてね。それで、たぶん、香司君が君を助けるだろうとは思ったんだけど、妖との取引だからね。人間には少し難しいかもしれない。だから、保険をかけるつもりで、ぼくも通うことにしたんだ」 楽しげな目つきで言われて、忍はゴクリと唾を呑みこんだ。 いくら善意で通ってきてくれても、ここは遊郭だ。 (えーと……一回目は初会っていうんだよな。会ってもよそよそしくて、遊女と客は口もきかないし、えっちはなし。二回目は『裏を返す』っていって、一回目よりは親しい雰囲気だけど、まだえっちはできなくて……三回目で初めて、えっちして、馴染み客と認められるって聞いたけど。……三回きたら、オレ、鏡野さんと……しなきゃいけねえのか!? そんなの、無理!) しかし、助けにきてくれたことは素直にありがたいと思った。 「ありがとうございます……。でも、今夜、香司がきたら……なんかまずいんじゃ……」 「鉢合わせはしないよ。ここの花魁は一晩に一人しか客はとらない。そういうルールになっているんだ。だから、ぼくがきた晩は香司君はこない」 「えー? でも……香司が毎晩来ようとしたら?」 「玉風楼のほうで、そのへんは調整するよ。客を焦らすのも商売のうちだ」 「でも、鏡野さんが通ってるって香司にバレたら……」 それが一番、不安だった。 「誰が通ってきているかは、言わないのが郭のしきたりだ。大丈夫だよ、忍さん。香司君がうまくいけば、ぼくはフェードアウトするから」 綾人は微笑んで、「ぼくを信頼してほしい」と言った。 翌日の夜。 色町に灯が点り、大門(おおもん)から続々と妖たちがやってくる。みな、着物姿で、思い思いにめかしこんでいる。 仲の町(なかのちょう)と呼ばれる大通りの左右に、二階建ての引手茶屋(ひきてちゃや)が軒を接して建っている。 その一つ、扇屋(おうぎや)のなかから一人の少年が姿を現した。透きとおるように白い肌と闇のような黒髪、完璧なまでに整った顔だちが印象的である。色町には珍しく、黒いスーツに身を包んでいる。 この少年が御剣香司。陰陽師(おんみょうじ)の香道、御剣流の宗家の跡継ぎで、夜の世界の三種の神器の一つ〈八握剣(やつかのつるぎ)〉の継承者でもある。 香司の前に、着物姿の妖が提灯(ちょうちん)を手にして立っている。提灯には「玉風楼」の筆文字。 妖は、灰色の着物の下に紺色の股引をはいている。玉風楼の若い者だろう。 「御剣さま、ご案内いたします」 妖は恭しく頭を下げ、先に立って歩きだした。 大通りの真ん中には、ずらりと紅葉が植えられている。 紅葉の下は行き交う妖の男女で賑わっていた。女は遊女だろうか。 風呂敷包みを小脇に抱え、走っていく禿もいる。遊女のために、質入れに行く途中らしい。 二階建ての建物の横には、防火用水の樽が積んである。妖の色町でも、火事は怖いとみえる。 オレンジ色の光が漏れる格子のむこうで、遊女たちは気怠げに煙管(キセル)をくゆらしている。格子のこちら側の客と思わせぶりに会話する者や、気のない素振りで「どうともしなんし」と言って、あちらをむいてしまう者もいる。 「一日おきにしか通えないというのは、不便だな」 香司は、ボソリと呟いた。 「へえ。それがしきたりでございますから」 「どうして、毎晩通えないんだ?」 「お馴染みさまになられるまでのご辛抱でございます」 妖は提灯を掲げ、裏通りに入っていく。 賑やかな大通りの喧噪は影をひそめ、いつの間にか香司は川の土手を歩いている。 さっきまで秋だったはずなのに、このあたりは夏のように空気が生暖かく、草の茂みのあいだを蛍が飛び交っている。 「なんだ、ここは?」 「玉風楼へ通じる近道でございます。妖の道でございますから、案内の者がおりませんと迷ってしまいます」 土手の左右に、遊郭の建物と格子がオレンジ色に浮かびあがっている。 蛍たちがふわりと香司の側を通り過ぎていく。 (綺麗だな。これは忍に見せてやりたいが) やがて、川沿いの土手は森のなかに変わり、森をぬけると遊郭の明かりが見えてきた。 「あちらが玉風楼でございます」 掲げた提灯のむこうに、二階建ての立派な建物が浮かびあがる。 桜の絵が描かれた襖が開くと、そのむこうの座敷に香司が座っていた。 背の高い燭台と行灯(あんどん)がいくつも置かれ、部屋のなかは昼間のように明るかった。 床の間には琴が立てかけられ、その横に忍には使い道のわからない豪華な箱も置いてある。 座敷の真ん中には、黒地に螺鈿細工(らでんざいく)をほどこした煙草盆が置かれている。 煙草盆は忍太夫のものだが、もちろん、忍には喫煙する習慣はないので、ただの飾りになっている。 (よかった……。今夜は香司だ) 忍は、ほうっと胸を撫でおろした。 この玉風楼の主人と遣手婆(やりてばば)から、香司と綾人を交互に通わせると聞かされていた。 だが、実際に香司がくるまでは心配でたまらなかったのだ。 「星と桜の祭り」より 香司が忍を見、微笑んだ。 おいでと招かれて、いそいそと近づこうとすると、後ろで遣手婆がコホンと咳払いするのが聞こえた。 「忍太夫、まだ裏を返したばかりでございますよ。さあ、太夫はこちらにお座りください」 案内されたのは、床の間を背にした上座。 よく見れば、香司は下座に座らされている。 昨夜の綾人も、そういえば下座だった。 「お客さんが上座なんじゃ……」 「これが、しきたりでございます」 怖い目でそう言われると、忍はそれ以上、逆らうことはできない。 (ぜってー、こいつ蛇の妖かなんかだ。おっかねえ) せっかく香司と二人きりになれると思ったのに、遣手婆は座敷に居座ってしまった。 「会いたかった、忍」 香司が切なげに微笑む。 「オ……私も」 忍は、落ち着かない思いで牡丹色の振り袖を見下ろした。 この振り袖は、昨夜の綾人からの贈り物だ。たぶん、遊郭で用意してくれた振り袖の何倍も高価なものだろう。極上の絹に友禅染(ゆうぜんぞめ)で、小槌(こづち)や扇など、めでたい絵柄が染めつけられている。 香司がくる時に着るわけにはいかないと言ったのだが、遣手婆たちは強引に忍に着せつけてしまったのだ。 香司も忍の視線に気づいたのか、振り袖をじっと見た。 「いい着物だな。ここで用意してくれたのか?」 「え……あ……うん……」 (やべえ。鏡野さんがくれたってバレたら血の雨が降る) 忍は、曖昧に笑った。 香司が何か勘づいたような目になる。 「もしかして、俺以外にも通ってきている奴がいるのか?」 「……うん」 隠しきれなくなって、小さくうなずくと、香司は不機嫌そうな顔になった。 (怖いよ、香司。怖い) 「そいつの贈り物か。何会目だ、そいつは?」 「初会……だけど」 「初会か。おい、まさか、昨日の晩、俺が来なかった時にそいつと会ってたんじゃないだろうな!」 香司が言葉を荒らげると、禿たちが顔を見合わせ、「野暮天だ」とクスクス笑いだした。 遣手婆も、皺だらけの顔でニイッと笑う。 「人間の若さま、ここは色里。野暮なことは言いっこなしでございますよ。先に三夜通われて、お馴染みになられれば、忍太夫は若さまのもの。せいぜい、お励みなさんし」 香司は、ギリッと唇を噛みしめた。 座敷に、気まずい沈黙が降りる。 (どうしよう……。香司、すげぇ怒ってるよ) しかし、香司は自分の置かれた立場を思い出したようだった。 「太夫、お客人にお庭をお見せしては?」 遣手婆が、何事もなかったように言う。 ホッとして、忍は立ちあがった。着物の所作は御剣家で特訓されて、だいぶ慣れた。裾さばきも美しい。 香司が「ほう」と言いたげな目で、忍を見上げた。 「まあ、これも悪くないか」 呟いて、香司は立ちあがり、当然のように忍の手をとった。 遣手婆も制止しようとはしない。 狐耳の禿と河童の禿が座敷の障子に駆けより、障子を開く。 そのむこうには京都の坪庭のような庭と、満開の見事なしだれ桜があった。 庭のむこうには別の座敷があり、そのむこうは仲の町に面している。 遊郭の軒先を飾る提灯に照らされて、はらはらと桜の花が散りかかる。 「嘘……! 桜!? 秋のはずなのに……」 忍は、目を瞠(みは)った。 香司も驚いたような顔をしている。 「遊糸城は、人の世界とは違います。四季おりおりの一番美しい瞬間が、そのまま閉じこめられているのでござりますよ」 遣手婆の声が、背後から聞こえる。 「綺麗だ」 忍の手を握ったまま、香司が呟く。 「うん……」 忍は、そっと香司に身をよせた。 香司がわずかに目を見開き、じっと忍の顔を見つめる。 「かならず、請け出す」 「信じてるから」 (頼むよ。鏡野さんより先にだぞ) 言いたくても言えなくて、忍はただ、香司の手を持ちあげ、手のひらにそっと唇を押しあてた。 香司は切なげな瞳になって、忍の頬を片手で包みこんだ。 (キス……されるかな) 遣手婆たちの目が気になる。 だが、香司はぎりぎりのところでこらえたようだった。ゆっくりと手を下ろし、想いをこめた声でささやく。 「次に会った時には、連れて帰る。あと二日の辛抱だ、忍」 「うん……」 その言葉だけを信じて、耐えるしかない。 見つめあう二人のまわりで、花びらが雪のように舞っている。 綾人と香司は、交互に通うことになった。 香司は、忍のところに通ってくるのは妖のお大尽だと思いこんだ。帰り際に「どんな、すけべ爺いだ?」と訊いてきた。 しかし、忍は答えることができなかった。 言ったが最後、三会目を待たずに香司が大暴れしそうで怖かったのだ。 綾人のほうは飄々(ひょうひょう)と玉風楼を訪れ、禿から遣手婆にまで心付けを渡し、粋に遊んで帰っていく。 忍にも珊瑚や真珠の簪(かんざし)と一緒に、梅を紫蘇の葉で巻き、砂糖漬けにした甘露梅や、上品な甘さのあんころ餅を差し入れてくれる。 玉風楼では、どうも綾人のほうが人気が高いようだった。 忍は綾人の差し入れはうれしかったが、あまりに遊び慣れているので、なんとなく面白くなかった。御剣家の次期家元の婚約者である自分には、そんなことを考える権利はないはずなのだが。 香司との三会目の朝、忍はいつも以上に落ち着かない気分で過ごしていた。 朝の十時頃に起こされて、風呂に入り、朝食をとり、部屋の掃除をする。 隣の寝間には、香司からの贈り物の立派な振り袖と赤い繻子(しゅす)の三つ布団が届けられている。 (うまくいけば、今夜中に人間界に戻れるんだ。でも、その前に……ここで香司と……しちゃうのかな) 忍は、畳んで置かれた布団をちらりと見た。 それが人間界に帰る条件の一つとはいえ、恥ずかしくてたまらない。 (……っていうか、鏡野さんにもバレちゃうんじゃん。三夜目に会ってお馴染みになったってことは、香司とえっちしたってことで……。オレは鏡野さんには女だと思われてるから、香司とそうなってもおかしくはねえけど……。でも、やっぱ、そういうのを知られるのは恥ずかしい) そこまで考えて、忍はぷるぷると首を横にふった。 (とにかく、ここから無事に脱出するのが先だ) 三会目の夜、遊郭の格子と格子のあいだを提灯を手にした妖の若者と香司が歩いていく。 道は初会とも二会(裏)とも違い、しだいに薄暗く、寂しい山道になっていった。 「おい。道が違わないか?」 「炎と鏡の宴」より 妖は、香司を振り返りもせずに答える。 「こちらの道をご案内するようにと、主から命を受けております」 「どういうことだ?」 香司の声が、少し険しくなる。 妖は香司を振り返り、ニヤリと笑った。 「わが主は、忍太夫は人間よりも同じ妖の旦那さまに落籍(ひか)せるほうがよいとお考えです。人間の旦那は、厄介払いってことでござんしょ」 「なんだと……!? 約束が違う!」 「もう遅うござんす。今宵が三会目。今頃、忍太夫は真新しい三つ布団でお大尽さまに可愛がられておりましょう」 妖はククッと笑った。 香司の顔色が変わる。 「ふざけるな! 忍は俺のものだ! 玉風楼に連れていけ! さもなくば……」 白い手が、すっとスーツの懐に入る。 とりだしたのは、和紙の札――呪符。 「御剣流の呪符でございますな。御剣流は退魔の香道。そのようなものを、この遊糸城に持ちこむとは」 あたりがザワザワと揺れはじめる。 香司は油断なく、あたりを見まわした。 暗い木々のあいだや草の茂みのなかから、黒っぽい影がいくつも現れる。 みな、凶悪な妖たちだ。 「だましたな! 最初から、俺を始末する気だったのか!?」 「人間ごときが遊糸城に入ってきたのが間違いのもと」 ふっと、妖が提灯を吹き消した。 あたりは、真の闇に変わる。 |