色町の営業時間は、午後六時(暮れ六ツ)から十時(四ツ)と定められている。
だが、それでは早すぎるということで、二時間の延長が認められていた。 午前〇時(九ツ)になると、あらためて四ツを意味する拍子木(引け四ツ)が四回打たれる。色町では、四ツが二回あったのだ。 遠くで、引け四ツの拍子木が鳴りはじめる。 それを合図のように、あちこちから、いっせいに障子をあけたてする音や落とし戸を閉めるような大きな音が聞こえてきた。 最初の日は驚いたが、今では色町の店仕舞いにあわせて格子の内側の障子を開き、桟の落とし戸を閉じているのだと知っている。 客の相手をしない遊女たちや禿たちは、これを合図に床に入り、眠るのだ。 (香司……。なんで来ねぇんだよ) 誰もいない座敷で、忍は襖のほうをながめていた。 香司は来ると約束したのだから、来ないはずがない。もし、なんらかの事情で来られないのだとしたら、連絡をよこすはずだ。それもないということは、何かとんでもないことに巻きこまれているのではないか。 どこかで道に迷っているのだろうか。それとも、裏を返した日の帰り道で事故にでもあったのではないか。 考えれば考えるほど、悪い想像になってくる。 この世界には携帯電話もなければ、メールもない。香司のほうから誰か妖を使って玉風楼に連絡をよこすことはできても、こちらから香司に連絡をとることはできない。 どこかで香司が殺されてしまっても、その知らせは忍の耳には届かないかもしれないのだ。 (怖い……) もし、香司や綾人が助けにきてくれなければ、自分はこのまま人間の世界に戻れないまま、妖たちの慰みものになってしまうかもしれない。 「花と香木の宵」より そして、客としてやってくる異形(いぎょう)の妖たちの姿が。 (頼む……無事でいてくれ、香司。どうか……) どうしようもなく手が震える。 引け四ツの拍子木が鳴り終わった。 あたりがシンと静まりかえる。 遊女たちといる客以外は、もう新しい客は玉風楼に入ってくることはできない。 (どうしよう。オレ、捜しに行ったほうがいいんだろうか) 迷った末に、忍は立ちあがった。自分が捜しに行くしかないと思った。 その時だった。 廊下に面した襖が静かに開いた。 そこには、着物姿の綾人が立っていた。心配そうな顔をしている。 後ろに、笑顔の遣手婆が立っていた。 (鏡野さん……) 「香司君はいないのかい?」 座敷のなかを見まわして、綾人は眉をひそめた。 「まだ来てないんです」 こんな時だというのに少しホッとして、忍は綾人に近よった。見知った顔があるというのが、心強い。 遣手婆がコホンと咳払いして、忍を上座に座らせる。 綾人も下座に座って、慣れた仕草で遣手婆に紙に包んだ銀を手渡した。切り餅と言われているもので、二十五両あるらしい。 遣手婆がうれしそうにお礼を言い、専用の箸や酒を用意して席を外した後、忍は綾人の隣に座った。 この時、玉風楼では忍太夫が客からもらった三つ布団を初めて敷き、枕をかわす敷初の儀を祝って、全員に蕎麦がふるまわれている。 「鏡野さん、どうして香司が来てないって……?」 綾人も心配そうな顔で、答える。 「さっき、近くの料亭で休んでいたら、玉風楼さんからお迎えがきてね。忍太夫のお座敷が空いているから、ぜひ来てくれというんだ。おかしいと思ったから、様子を見にね。今夜は、香司君の番じゃなかったのかな?」 「そうです。迎えの人は、香司さんのこと何も言ってなかったですか?」 「うん。だから、少し心配になった。もしかしたら、君を香司君に身請けさせる気がなくなったのかもしれないと思ったんだ」 「もし、そうなら、香司は?」 忍の胸の鼓動が速くなる。 綾人が、そっと忍の手をとる。 「大丈夫だ。さっき味方の妖たちに、香司君を捜してくるように頼んでおいた。君は、飛びだしていこうなんて考えちゃいけないよ。花魁の足抜けは、重罪だ。二度と人の世界に戻れなくなるかもしれない」 「でも……」 「ぼくを信じてくれたまえ。香司君は、きっと助けだす。君もね」 静かな瞳で言われて、忍はなぜだか泣きだしたいような気分になった。 気を張りつめていたのに、優しくされるとすがってしまいたくなる。 だが、忍は懸命にこらえた。 綾人は、恋人ではない。甘えるわけにはいかなかった。 たとえ、綾人が自分を受け入れてくれるとわかっていても。 (オレは男だから……ダメだ。甘えちゃ) 今は香司と綾人を信じて、待つしかなかった。 「長い夜になりそうだね」 ポツリと呟いて、綾人は着物の懐から竹の横笛をとりだし、吹きはじめた。 もの悲しい音色が、夜の遊郭に流れだす。 座敷の外で、禿たちが笛の音にうっとりと聞き惚れている。一階の廊下では、拍子木を持った夜番の男が笛の音に耳を傾けていた。 格子の灯が消えた郭の外を、鉄の杖を持った夜警が「火の用心」と叫びながら通り過ぎていった。 時刻はもう真夜中。 香司の消息は、まだわからない。 (どうしよう) 忍は畳に座ったまま、うつむいていた。 綾人はもう笛をやめ、心配そうに忍の横顔を見つめている。 二人の前には酒の盃があるが、どちらも手はつけていない。 部屋の隅には、また戻ってきた禿と遣手婆がいる。 「連絡がないな。こうなったら、ぼくが捜してきたほうがよさそうだね」 綾人は盃をとって一気に飲み干し、立ちあがった。 「鏡野さん……」 お願いしますと言いかけた時だった。 遣手婆の合図で、隣の部屋との境の襖がすっと開いた。 (げっ……) いつの間にか、そこには艶めかしい真紅の繻子の布団が三枚重ねて敷かれていた。布団の上には、枕が二つ。 枕もとには雪洞(ぼんぼり)が点っている。 「さ、鏡野さま、そろそろ……。このままでは夜が明けてしまいます。みな、待ちかねておりますので、早うお床入りを」 遣手婆に急かされて、忍はゴクリと唾を呑みこんだ。 「銀と月の棺」より 綾人も困ったような顔で布団をながめていた。 だが、ここで帰れば、三会目が成立しない。 (どうしよう……どうしよう……) 「ささ、どうぞ、鏡野の旦那さま」 重ねて促されて、綾人は「しかたがないね」と言いたげな顔になった。 忍の手をとり、立ちあがらせる。 (えー? マジ!? ちょっと待てよ) 忍は、目を見開いた。 しかし、遣手婆の前で暴れるわけにはいかない。 「おいで」 肩を抱きよせられ、寝間に連れていかれる。 (ぎゃー! やばい! これ、絶対やばい!) 禿たちがついてきて、手際よく忍の振り袖を脱がせ、肌襦袢一枚にする。 (うわー! うわーっ! うわーっ!) 振り袖を衣紋掛けにかけ、帯や小物を乱れ箱に丁寧に並べると、禿たちは正座して頭を下げた。 「それでは、花魁」 「わっちらは、これで」 (待って! オレを置いていかないで!) 心のなかでジタバタしていると、遣手婆が寝間を出ながら忍を振り返り、ニヤリと笑った。 「鏡野さまは遊び人で、気っ風のよいおかた。忍太夫はよい旦那さまに恵まれて、幸せものにございます。たんと可愛がってもらいなさんし」 (冗談……! ちょっと待て!) 忍の前で、襖が閉まる。 寝間には、綾人と忍が二人きりで残された。 (やばい……) 全身を強ばらせていると、綾人が忍の手をとって、布団のほうに歩きだした。 (ぎゃー!) 「大丈夫だ。何もしない。約束するよ」 耳もとで、かすかな声がした。 (嘘だ。絶対、嘘だ……) 忍はがくがく震えながら、身を硬くしている。 綾人が小声でささやく。 「まだ、聞き耳を立てられている。床入りをするふりをしたほうがいい」 (マジかよ? でも、鏡野さん相手にえっちしてるふりなんかできねえ……) それでも、綾人に促されて、警戒しながら繻子の布団に座る。 ふいに、どこかの座敷から、女のあえぎ声が聞こえてきた。かなり声が大きい。 忍は真っ赤になって、うつむいた。 二つ並んでいる箱枕を意識せずにはいられない。 「可愛いね、君は。本当に」 綾人は忍の枕もとに座り、ふふ……と笑った。 忍は全身を強ばらせ、警戒している。この状況で何もしない男がいるとは思えない。 (がばっときたら、どうしよう) そうなれば、忍が抵抗しても無駄だろう。どう見ても、むこうのほうが力が強そうだ。 (オレ……このまま、鏡野さんに……? そんなのやだ……。でも、オレ、今は花魁だし、ここは遊郭だし、鏡野さんは客だし……どう考えてもやられちまうよな……。どうしよう。香司になんて言えば……) だが、綾人はじっと忍を見下ろしたまま、動かなかった。 何かをこらえるように、切なげな気配が伝わってくる。 「香司君はきっと大丈夫だよ」 静かな声が、ささやきかけてくる。 「本当でしょうか?」 できるならば、今すぐ布団から飛び出し、香司を捜しに駆けだしていきたい。 しかし、そんなことをすれば、大騒ぎになってしまうのはわかっていた。 「香司君の霊気は消えていないからね」 なだめるように、綾人が言う。その言葉が、何より忍を安心させた。 大蛇一族の当主である綾人が香司の霊気を感じているならば、本当に大丈夫なのだ。 「今、どこにいるかわかりますか?」 「さあ……そこまではね。でも、この色町のどこかにいるよ」 綾人の声は、優しい。 忍は、ふと綾人がここにきた理由がわかったような気がした。 たぶん、綾人は不安がっている自分を慰めるため、三会目にもかかわらず、きてくれたのだ。 それが色里でどんな意味を持つのか充分にわかっていても。 あのまま、来ない香司をたった一人で待っていたら、忍は不安に押しつぶされてしまったかもしれない。 (オレのために……きてくれたんだ) きっと、自分を抱くためではなくて。 (本当に優しいんだ……鏡野さんは) 怯えたり、疑ったりして、申し訳ないことをしたような気がする。 思えば、綾人はずっと忍のためにナイトに徹してくれていた。 艶めかしい布団の敷かれた部屋で二人きりになったからといって、いきなり襲いかかるような真似はしないだろう。 (たぶん、そうだと思うんだけど) 忍は、チラリと綾人の顔を盗み見た。 声に出さない想いを読みとったのか、綾人はふっと笑った。 「『お座り』も『待て』も得意だよ。ぼくはこう見えても、辛抱強いんだ。大丈夫だよ、姫君。君の同意がないかぎり、不埒な真似はしないから」 「本当に本当ですね?」 「君への想いにかけて誓うよ」 真摯な眼差しで、綾人が言った。 誓うと口にしたのならば、嘘はつかないだろう。 忍は布団の端に座り、膝を抱えた。肌襦袢一枚では、少し寒い。 綾人が気づかわしげな顔になった。 「布団に入っていてもいいんだよ、忍さん?」 「いえ。このままでいいです」 「寝てもいいのに」 からかうように言われて、忍はいっそうムキになった。 (絶対寝たりしねえ) 朝まで起きていようと思った。それなのに、睡魔が襲ってくる。 (寝ちゃダメだ……。寝ちゃ……) こっくりこっくりと船を漕ぎはじめて、忍はハッと目を覚ました。 だが、すぐにまた目蓋がくっつきそうになる。 クス……と笑う声が耳もとで聞こえたようだった。 「しかたがないね、ぼくの姫君は」 夢うつつのなかで、誰かがそっと忍の髪を撫ではじめる。 (誰だろう……気持ちいい……) 忍はとろとろと睡魔に引きこまれ、いつの間にか深い眠りに落ちていった。 何やら騒がしい声で、忍は目を覚ました。 いつの間にか、綾人の膝枕で寝ている。 (うわっ!) 起きあがろうとした時、座敷の襖がパンと左右に開いた。 血相を変えた香司が立っている。何かあったのか、スーツはあちこち破れ、髪も乱れている。 「忍! 無事か!」 香司は忍と綾人を見、一瞬、目を見開いた。 「お大尽とはおまえのことか、鏡野!」 「やあ、香司君。ああ、安心したまえ。ぼくは何もしていないよ」 綾人は忍が起きるのを手伝いながら、ニコッと笑った。 「信用できるか」 香司は、キッと綾人を睨みつける。その全身から、青い炎が燃え立ったようだ。 視線で妖が焼き殺せるものならば、とっくに綾人は死んでいたろう。 (やべえ……) 焦って、忍は肌襦袢からのぞく膝頭を隠した。 しかし、綾人は平然としている。 「いつ、君が乱入してくるかわからない状況で、忍さんに手を出したりしないよ。そんなのは、ぼくの趣味じゃないね」 香司は不機嫌そうな顔で、殺気をおさめる。いちおうは、綾人の言い分を認めたらしい。 忍は慌てて立ちあがり、香司に駆けよった。 「ごめん。うっかり寝ちゃって……」 「何もなかったろうな?」 「ねえよ!」 (ないと思う……) 髪を撫でられたらしいことは、黙っていようと思った。 「待たせて、すまなかった」 表情をあらためて、香司が頭を下げる。 その言葉を耳にしたとたん、忍の胸が大きく波立った。怖かった。不安だった。ずっと待っていた。 かなうものならば、この場で抱きつきたい。 しかし、忍はぐっとこらえ、できるかぎり落ち着いた声で答えた。 「ううん。オレこそ……ごめん」 「かまわん。おまえが無事なら俺は……」 言いかけた香司が、素早く振り返った。 いつの間にか、背後に剣呑な様子の妖たちがいる。暗い道から追いかけてきたものもいるし、この玉風楼の用心棒たちもいる。 妖たちの先頭に、遣手婆が立っていた。 「忍太夫は返さないよ。もっと稼いでもらわなきゃいけないからね。返しやしないよ」 「やはり、最初から俺をだます気だったのか」 香司の瞳が、ふっと冷たくなる。 「一度、遊糸城に入ったものが無事に人間の世界に戻れるとお思いかえ?」 言葉と同時に、遣手婆の身体が変化しはじめた。両手が脚に変わり、耳がピンと尖る。顔が毛に覆われ、背中のほうから太くて長い尾が生えてくる。 いつの間にか、そこには目を爛々と光らせた大狐がいた。 (狐だったのかよ……!) ビシュッ! 大狐の鼻先で、香司の呪符が青く弾ける。大狐はギャンと鳴いて、部屋の隅に転がった。 「裸蟲(らちゅう)。土気(どき)の妖だ。臭いは香(こう)、数は五、味は甘、音は宮(きゅう)。木剋土(もっこくど)の理(ことわり)によって、木気(もっき)の前に姿を現す。見切ったぞ。おまえは阿紫(あし)。古代中国から渡ってきた狐の妖だ。淫婦が変じたもので、人をたぶらかし、人の生気を吸いとる」 香司は、スーツの懐から小刀をとりだす。 小刀をぬいて、鞘をすっと撫でると青い煙があがる。 「伽羅(きゃら)、羅国(らこく)、真那蛮(まなばん)、真那賀(まなか)、佐曾羅(さそら)、寸門多羅(すもんたら)、急々如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)!」 小刀は光りながら長くのび、銀色の剣に変わる。 「〈青海波〉(せいかいは)に木気の属性をつけた。土気のおまえは木気の剣に剋(こく)される」 ――黙れ、人間めが! 阿紫が牙をむきだし、襲いかかってくる。 「五行に還れ!」 香司の剣が一閃する。 ザシュッ! 阿紫の身体が切り裂かれ、パッと砕け散る。 次の瞬間、ごうっと風が巻きおこり、妖たちが散り散りになって逃げていく。 (うわ……) 「こっちだ! 三会目の条件を満たしたから、人間界への門が開いている! あそこから逃げるんだ!」 綾人が先に立って走りだす。 香司は忍の手をとり、綾人の後から玉風楼を走り出た。 後ろで「足抜けだ!」「捕まえろ!」と声があがった。妖たちが追ってくる。 仲の町の大通りの紅葉の下を、肌襦袢姿の忍は香司と手に手をとりあって逃げていく。 風に散らされ、赤い紅葉がはらはらと降りかかってくる。 それは、この世のものとは思えないほど、美しい光景だった。 やがて、行く手に立派な木の門が見えてきた。門の側で、綾人がこちらに手を振っている。 門のむこうには、夜の雲海が広がっていた。 「飛びこみたまえ、早く! ここから戻れる!」 (え? あのなかに?) 忍は一瞬たじろぎ、香司の横顔を見た。 「本当に飛びこむのか?」 「俺がついている」 真摯な眼差しで、香司が言う。 かならず、人間界に連れ戻してやると。 その言葉を耳にした時、忍のなかから不安と迷いが消えた。 (香司がいるなら……怖くねえ) 忍は、香司の手を握る指に力をこめた。香司も忍の手をギュッと握りかえしてくる。 たったそれだけの仕草に、胸が熱くなる。 「愛しているよ、忍」 香司は、想いをこめた瞳で忍を見つめた。 「オレも……」 背後から、妖たちの気配が迫る。 「急げ!」 綾人が声をあげる。 少年たちは手をとりあったまま、門までの距離を駆けぬけ、同時に雲海に飛びこんだ。 |