講談社BOOK倶楽部

special story

WEB限定小説

『魂織姫 運命を紡ぐ娘』スペシャル番外編

「五更(ごこう)の夢」

本宮ことは

 とんとん、からり。とん、からり。
 踊るように、弾むように、水華(すいか)の白い手が機の上で翻る。そのたびに、機にかかった織りかけの布が、ほんのわずか長くなる。
 今織っているのは、この国の王の衣にするための布。色は薄紫。
 朝焼けの空を思わせる艶のある糸はそのままでもうっとりするほど美しい。それが、布の形となったらかえって見劣りするなどということになれば、糸にも、紡いだ者や染めた者にも悪い。美しい糸を、さらに綺羅綺羅しく形作るのが水華の務めだ。
 王にふさわしく、模様は桐竹鳳凰。それに麒麟をあしらっている。ひどく複雑な意匠だが、じわりじわりと織り進めていくうちに、布の上に少しずつ形が浮かび上がってくる。形良く麒麟を織り出すのがなかなか大変で、だからこそやりがいがあってひどく面白い。

 あとちょっと、あとちょっとで麒麟の角が見えてくる。あとちょっと、あとちょっとで前足が。あとちょっと……。
 息を詰めるようにして手を動かし続けていると、不意に、寝台のほうから衣擦れの音が響いた。その瞬間、まるで天上から落とされたかのように、はっ、と我に返る。
 そうだった。
 今この宮には、水華独りではないのだ。
「どうかなさいましたか?」
 寝台へ向かって声をかける。すると、上掛けの中からもぞもぞと黒い頭が姿を現した。
 何度見てもはっとするほど冴え冴えとした月のような美貌。珍しく眠り込んでいたのか、艶やかな黒髪がわずかに乱れている。水華には広すぎる寝台でさえ、急に狭くなったのではないかと感じさせるほどの長身をゆっくりと起こしたその貴人は、その名を呼ぶのさえ憚れる高貴な身――この国の王だ。
「夢を見た」
 どこかとろんとした、おぼつかない表情で、ぼんやりと王は口を開いた。
 王は、時折、水華しかいないこの宮にやってくる。息抜きらしい。
 魂織姫を祀り、女神のための手業を奉じるこの白栲宮は神域で、王族と巫女以外は何人たりとも足を踏み入れることが出来ない。どんな重臣でも、王の護衛でもだ。そのため、その静けさを気にいった王が、時折ふらっとやってくるようになったのである。
 やってきても、なにをするわけでもない。この宮は火気厳禁で、茶のひとつも供することが出来ない。ただ、寝台に長い手脚を気持ちよさそうに伸ばして、水華が機を織るのを眺めているだけだ。
「その機の音のせいか。やけに奇妙な夢だった」
 独り言のような呟きに、水華は黙って耳を傾ける。返事を期待されているわけではないと思ったからだ。
 はたして、王は独りでぽつぽつと語り続ける。
「余は謁見の間の玉座に座っておった。朝議が始まるものと思っていたら、目の前にずらりと並んでおったのは馬だった」
「あの……王城の中に、馬、ですか?」
 あまりに突飛な発言に、つい口を挟んでしまう。
「だから奇妙な夢だと申したろうが。……馬らに静かにせよと申しつけても、あちらこちらでひひんひひんといなないて騒がしい。とうとう、業を煮やした桓湛(かんたん)が、手にした笏で馬の尻をぴしりぴしりと叩き始めたのだ」
 つい、吹き出しそうになるのを水華は必死にこらえた。あの桓湛が馬の尻を叩いているところを想像すると、笑わずにはいられない。
「その音があまりに激しいので、そんな風に叩いてかえって馬が暴れ出したりしないのかと尋ねたら、馬というものはこういうものなのです、と桓湛が真面目くさって答えるもので、そういうものかと余は思わず納得してしまった――そこで目が覚めたのだ」
「機の音が、夢の中では馬を叩く音になったのやもしれませんね」
 笑み崩れそうな頰をいましめながら、水華がそう答えると、王は小さく頷いた。
「おそらくそんなところだろうな。その機の音は規則正しすぎる。おかげで眠気をもよおしてたまらぬ」
 言いながらも、王はふわあ、と小さなあくびを嚙み殺す。
「眠れないと愚痴っている連中をここへ連れてくるべきだな。いや、この宮には余しか入れぬから、そなたが外へ出るべきか」
 しかしそうしたらこの宮で自分がのんびり出来なくなるし、と、王は眉間に皺を寄せて難しい顔をしている。たとえ話にこんなに真剣になる王も珍しい。どうやらまだはっきりと頭が冴えていないようだ。水華が顔をほころばせると、ようやく王も、自らの状態に気づいたらしい。口を閉じると、頭をひとつ大きく振った。
「ああ、こんな阿呆らしいことをぐだぐだ抜かしている場合ではないな。余はどれほどうたた寝しておったのやら」
 水華はちら、と機に目をやった。
「半時ほどかと」
 即座に答えた水華と、宮の外の空とを交互に眺め、王が不思議そうな顔になった。
「どうしてわかる? この宮には時計はないであろう? 今日は曇っておるから陽の高さで時を計ることも難しいし」
 その疑問はもっともだ。水華は小さく頷くと、自らの前の機を示した。
「この機に張ってある経糸がおわかりになりますか? 織り上がる前の糸を巻いてある棒が緒巻、織り上がった布を巻き付けていく棒を千巻といいます」
 急に水華がなにを言い出したのかと、王は興味深げな顔になって寝台から身を乗り出す。
「別名、五更、とも呼びます」
 更とは、夜の長さを計る単位のことだ。一更がおよそ昼でいうところの一時。それが五つ、ということで、五更は一晩、という意味にも使われる。
「織っていけば当然これらの棒はゆっくりと回っていきます。私の手ですと、ちょうど五更で一回りする速さです」
「なるほど。だからその棒の回り具合を見ていれば、時計の代わりになるというわけか」
「はい」
 水華が頷くと、王は得心したように首を振った。
「五更とは巧く言ったものだな。しかし、どうして五時ではないのだ? 夜に機は織れぬだろうに」
「さあ、そこまでは」
 昔からの呼び名の理由など知るはずがない。水華が肩をすくめると、王は何事かを思いついたかのような顔で小さく笑った。
「余はなんとなく思いついたぞ。……つまるところ、先ほどの余と同じということだ」
 どういう意味だろう。水華がわずかに首を傾げて目で問うと、王は鮮やかな笑みを水華に向けた。
「夢を見たいのだろうよ」
「夢を……」
「ああ。美しい布を織り上げる夢を。それを身に纏って美しく着飾る夢を。機に向かう者たちは布を織りながらそんな夢を見ているのではないか?」
 確かに、水華はいつも織りながら祈っている。美しく仕上がるようにと。それを夢と言うなら確かにそうなのかもしれない。
 頷き返した水華を満足そうに見つめると、王は視線を機へと移した。
「五更、か。……一度、その時刻にその機の音を聞いてみたいものだな」
 五更とは、一晩という意味。
 そしてもうひとつ、五番目の更、つまり夜明け前、という使われ方をする場合もある。
「さぞや、妙なる音を響かせてくれるだろうに」
 その声が、何故かひどく甘いような気がする。
 水華は自らの頰に熱が上がるのを感じ、そっと下を向いた。