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WEB限定小説

「公爵夫妻の面倒な事情」バレンタイン番外編

2月といえばバレンタインデー! 只今絶賛発売中の『公爵夫妻の面倒な事情』の著者・芝原歌織先生が、バレンタイン特別番外編を書き下ろしてくださいました! 甘~いチョコレートのお話をご賞味ください♪

「バレンタインの夜はあなたと」

芝原歌織

 オーク材の食卓を覆っているのは、バラの刺繡をあしらった高級感漂う白いテーブルクロス。
 その上には、オニオングラタンスープに、エビムースのサーモンマリネサラダ、牛フィレステーキに、真鯛のポワレ。
 いつもよりも少し贅沢な料理を、リュシアンが黙々と口に運んでいく。
 ノエルは固唾を呑んで、彼が食べ終えるのを待っていた。
 緊張しているのは、自分の作った夕食の評価が気になっているからではない。今日は年に一度の特別な日。この時のためにもう一つ準備していたものがあったのだ。
 ノエルの計画に気づくよしもなく、リュシアンは料理を平らげ、おもむろに席を立つ。

「あっ、待ってください! 召し上がっていただきたいものがまだあるんです!」
 ノエルはとっさにリュシアンを呼び止め、食堂の隅にある食器棚へと向かった。そして、棚の奥に隠した蓋(クロッシュ)つきの皿を取り出し、リュシアンの元に運んでいく。
 それを食卓の上に置き、クロッシュを外すと、リュシアンは怪訝そうに眉をひそめて質問した。
「何だ、この泥のような物体は?」
 ──苦労して作ったデザートを『泥』呼ばわり。
「泥じゃありません! ガトー・オ・ショコラです」
「ガトー・オ・ショコラ?」
「知らないんですか? チョコレートのケーキのことですよ。チョコレートとバターを溶かして混ぜ合わせ、そこに砂糖や卵を加えてオーブンで──」
「余計な説明はいい。なぜ今日に限って泥まがいのケーキが出てくる? デザートは出さなくていいと言っていたはずだが」
 ──余計な説明。そして、またしても『泥』。
 ものぐさかつ無神経な物言いに、ノエルはキレそうになるのをこらえながら返す。
「もう、今日が何の日かもわからないんですか? バレンタインデーですよ」
「バレンタイン?」
「いくらひきこもりだからって、世間知らずがすぎますよ。東国から伝わってきたお菓子のイベントです。ここ数年、一般女性の間で流行っているお祭りみたいな行事でして、お世話になった人や愛する人にチョコレートを贈るという風習が」
「愛する人にチョコレートを贈る?」
 説明の途中で確認するように問われ、ノエルはハッと目を見開いた。
「は、はじめに言ったでしょう!? お世話になった人も含みますから! 義理ですよ、義理っ! 使用人の皆さんにも渡しましたし、公爵様が特別ってわけじゃありませんから!」
 声をひっくり返しながら主張する。これは愛する人に渡す本命チョコではないのだと。
 彼には金銭面でとてもお世話になっている。リュシアンのことは大切な存在(雇い主)だと思っているが、恋愛感情を抱いているわけではない。……たぶん。
「あの男にもやったのか?」
 気持ちの整理をつけていると、リュシアンが言葉たらずな質問を向けてきた。
「あの男? ユベール叔父さんには今朝届けましたけど」
「君の叔父ではない。あの男だ!」
 不愉快そうな顔を見て、ノエルの脳裏に芸術アカデミーの学友の顔がよぎる。
「もしかして、レナルドのこと?」
 レナルドについて話が及ぶと、リュシアンはなぜか機嫌が悪くなってしまうのだ。
「あげてませんよ。彼はまだ僕のことを男だと思ってますから。男が男に贈るなんて、怪しまれるでしょう?」
 ノエルはレナルドに申し訳なく思いつつ説明する。
 すると、リュシアンは「そうか」と言って、とたんに勝ち誇った顔をした。
「まあいい。せっかくだ。食してやろう」
 どうやら、チョコをもらえなかったレナルドに優越感を覚えているらしい。彼は淡白そうに見えて、意外に子供っぽいところがある。
 しょうがない人だと思いながら、ノエルは席につくリュシアンを眺め、ケーキに視線を移した。外側の生地はさっくり、中は口どけよくしっとりと焼き上げたつもりだ。上から粉砂糖をまぶし、皿には渦巻き状の生クリームとブルーベリーソースを添えている。
 チョコレートの濃厚な香りが鼻孔をくすぐり、ノエルの食欲を刺激する。自分でも食べたくなるほどの自信作だが、はたして好き嫌いの激しい彼の口に合うだろうか。
 リュシアンはフォークに刺したケーキを無表情で口に運んでいく。
「……いかがです?」
 ケーキを食べ終えたリュシアンに、ノエルはドキドキしながら尋ねた。いちおう生クリームからブルーベリーソースまで完食してくれているが、あまりおいしそうな顔には見えない。
「食べたことのない味だったな」
 リュシアンはカラになった皿にフォークを置き、素っ気なく答える。
「もうっ、それだけですか?」
 ノエルは苛立ちをあらわに問い、心の中で落胆する。
 チョコは邸の皆にあげたけれど、リュシアンに渡すケーキだけは特にがんばって作ったのに。彼に感想を求めても、すげない返事しかくれないだろうことは予測していたが、今日くらいは何か言葉がないものかと、ちょっぴり期待していたのだ。
「お下げします。庶民のイベントにつき合ってくださってありがとうございました」
 ノエルはやや投げやりな口調で告げ、皿を片づけようとする。
 しかし、次の瞬間──。
「うひゃっ!」
 頰に生温かく湿った感触が走り、ノエルの口からおかしな悲鳴がこぼれ出た。驚きのあまり、手にしていた皿は食卓の上に転げ落ちてしまう。
「顔にチョコレートがついていた」
 ノエルの頰を急襲したリュシアンが平然と言って舌を出す。
「だ、だからって、舐めることはないじゃないですかっ!」
 ノエルは頰を押さえながら真っ赤になって抗議した。これはキスよりもたちが悪い。純情な乙女の頰を皿のように扱うなんて、どれだけデリカシーがないのか。
「もう一度味わいたくなる程度にはおいしかったということだ」
 怒った様子のノエルを見て、リュシアンは面倒くさそうに溜息をついて言った。
「また今度作ってくれ」
 そっぽを向いてしまった彼をノエルは意外な思いで見つめる。
 リュシアンからこんな言葉を引き出せるなんて。おいしかったと言ってもらえたのは、初対面の日に無理やり料理を食べさせた時以来だ。
 がんばって作った成果なのか。それとも、バレンタインデーの不思議な魔力のせいなのか。
「年に一度のイベントですよ。今日限定です」
 ノエルは内心飛び上がりたくなるほどうれしく思いながらも、もったいぶるように告げた。求められた時に何度も作ってあげるのでは、ありがたみがない。それに、年に一度だから勇気を出して、思いを形に表すことができるのだ。
 今日は女性が素直に気持ちを伝えられる特別な日。そして、きっと男性も──。
「では、来年以降も頼む。毎年な」
 リュシアンがかすかに口元をほころばせて要求する。
 それはすなわち、バレンタインの夜は毎年ノエルの手作りチョコが食べたいということ。これからもずっと側にいてほしいのだと。
「はい!」
 必要とされていることに無上の喜びを覚えながら、ノエルは笑顔で頷いたのだった。