講談社BOOK倶楽部

special story

WEB限定小説

「恋する救命救急医」シリーズ

ツイッター連載・スペシャル書き下ろし

「ワンダフルデイズ」

春原いずみ

 犬は風呂好きなのだろうか。バスタブの中にお湯をためながら、篠川臣(ささがわおみ)は考えていた。
「さぁおいで。今日はスリからだよ」
 篠川の大切な恋人である賀来玲二(かくれいじ)の声が聞こえる。
 天気のいいあたたかな日曜日、今日は二人の大切な愛娘たち、ウェルシュコーギー・ペンブロークのスリとイヴのお風呂の日である。名前を呼ばれて、スリが軽い足音を立てて近づいてきた。
「臣、お願い」
「はいよ」
 ちゃんとバスルームに入ってきたスリをつかまえて、お湯をためたバスタブに入れ、一応飛び出さないように、蛇口に短めのリードで繫ぐ。身体にぴったりとシャワーを当ててダブルコートの毛を濡らし、シャンプーを泡立てていく。
 犬たちのお風呂は二人の休みが重なる、天気のいい日に決まっている。何せたっぷりと毛のあるダブルコートのコーギーだ。洗うのも乾かすのもそれなりに手間がかかる。
「おい、スリ。ちょっと太ったんじゃないのか?」
 レディに失礼なことを言うと、きろりと睨まれた。くすくす笑いながら、身体中を洗ってやり、シャワーで流していく。ざっとバスタオルで水気を取って、バスルームから出してやる。
 ぬれねずみになって出てきたスリを、今度は賀来がつかまえて、きれいに拭き、ドライヤーをかける。
「さぁ、今度はイヴだよ。行っておいで」
 賀来がぽんとお尻を叩くと、イヴがしずしずとバスルームに入ってくる。
 イヴの方が手がかからない。よいしょと自分からバスタブに前足をかけてくるので、そのまま抱き入れてやる。
「イヴは風呂好きだな……たぶん」
 スリはバスタブを出たがることがあるが、イヴにはそれがない。お湯の中にゆったりと浸かっているので、頭にタオルの畳んだのをのせてやる。
「うん、似合う」
「何やってるの?」
 スリをざっと乾かした賀来が顔を出した。
「いや、こういうの似合うと思って。可愛いと思わないか?」
 頭にタオルをのせ、目を細めているイヴを見て、賀来が笑い出した。
「確かに可愛いけど……臣って、たまに子供みたいなことするよね」
「いいじゃん、どうせやるなら、楽しまなきゃ」
 シャンプーを泡立て、イヴを洗ってやりながら、篠川が言う。
「スリは? 乾いたのか?」
「今日はあたたかいから、ベランダにいるよ。あとでブラシをかけてやれば、毛は落ち着くと思うよ」
 ダブルコートの犬を完璧にドライヤーだけで乾かすのはなかなか大変だし、犬も嫌がる。だいたい乾かしてやり、あとはひなたぼっこを兼ねて、ベランダに出してやる。スリは陽射しに目を細めながら、身体を伸ばしていた。
「やっぱり、二人いないと家で洗ってやるのは難しいな」
 おとなしくしているイヴにシャワーをかけながら、篠川が言った。
「うちの子たちはおとなしいけど、それでも、一人でつかまえて、洗って、乾かしてとなると……大変だよな」
「だね」
 イヴの身体を流し終える。
「はい、ぷるぷるして」
「あ、こらっ」
 くすくす笑いながら、賀来が言うと、イヴは言う通りにぷるぷると身体を振った。容赦なく、篠川に雫が降り注ぐ。
「玲二っ」
「いいじゃない」
 イヴをバスタブから出してやり、賀来はバスタオルで拭いてやる。かなり毛を振ったので、水は結構切れている。代わりに、篠川がびしょ濡れである。
「リビングにおいで、イヴ。乾かしてあげるから。臣はそのままシャワー浴びたら? 汗かいたでしょ?」
「……ああ、おかげさまで」
 頭のてっぺんからびしょ濡れになった篠川が不機嫌な顔で、Tシャツを脱いで、濡れた前髪をかき上げる。
「だから、出てけ、玲二っ」

「あーあ……」
 濡れた髪を拭きながら、篠川はバスルームを出た。シャワーだけにしようかとも思ったが、お言葉に甘えて……というより、犬たちのご機嫌取りを賀来に押しつけて、ゆっくりとバスタイムを楽しんだ。明るい中で入るお風呂もなかなか乙なものだ。
「おーい、玲二。姫たちは乾いたか?」
「しーっ」
「へ?」
 リビングに入っていくと、賀来がソファに座り、そっと唇の前に指を立てた。
「玲二……?」
 賀来が微笑んでいる。
「姫たちは……お昼寝中だよ」
 リビングのカーペットの上、カーテン越しの光の中で、スリとイヴがころりと横になり、すーすーと寝息を立てていた。やはり犬も、お風呂に入ると疲れるのだろう。ふかふかの毛をきらきらと輝かせながら、気持ちよさそうに眠っている。篠川はそっと歩いて、賀来の隣に座った。
「……よく寝てるな」
「さっきまで、スリがイヴに絡んで遊んでたんだけどね。イヴがことっと寝ちゃったら、スリも寝ちゃったよ」
 一緒にここに来たわけではないのに、スリとイヴは仲のよい姉妹のようだ。犬たちが仲良くしていると、こちらも嬉しくなる。
「……乾杯しようか」
 ふいに賀来が言った。
「え?」
 きょとんとする篠川に、賀来はふふっと笑う。
「いいから」
 そして、すっと立ち上がるとキッチンに行き、少ししてから戻ってきた。手には、ワインボトルと二つのグラスを持っている。
「ワイン? 昼間っから?」
「スパークリングワイン……イタリアものだから、スプマンテだね。エチケットが素敵だから買ってみた」
 この手のボトルを抜栓するのは、篠川がうまい。自然にボトルを受け取り、静かに抜栓する。
「サンキュ、臣」
 賀来の手で二つのグラスに注ぎ分けられたスプマンテは、ふわふわとした泡を立ちのぼらせている。透き通ったきれいなピンク色だ。
「はい、どうぞ」
 グラスを陽の光にかざすと、細かい泡がきらきらと輝く。
「……じゃ、何に乾杯する?」
 篠川に尋ねられて、賀来は軽くウインクした。まったく、昼間っから色っぽい表情をする男だ。
「……何事もない日常に」
 篠川の頰に軽くキスをして、賀来は微笑む。篠川もふっと笑った。
「確かに」
 刺激的な日々も悪くないが、こんな静かな二人と二匹の日常がたぶん一番幸せだ。くうくうと眠っているお姫様たちを見つめながら、二人は微笑む。
「じゃあ……この時間に」
 チリンとグラスを合わせて。そして、唇を合わせて。
 乾杯。
 この優しい……幸せな時間に。