講談社BOOK倶楽部

special story

WEB限定小説

「VIP」シリーズ

ツイッター連載・スペシャル書き下ろし

「前夜」

高岡ミズミ

「ちょっとつき合って」
 21時過ぎ、待ち構えていた和孝は、ようやく帰宅した久遠をその言葉とともに外へ連れ出し、助手席へ乗るよう促した。沢木の運転する車に一緒に乗ることはあっても、自分の車に乗せることなどまずないが、今夜ばかりは特別だ。
 向かう先は、まさに今日、改装工事が終わったばかりの店。真っ先に久遠を連れていきたいと思い、それを実行したのだが、久遠に借金をしているから、というより単純に見てほしいと思ったのだ。
 自分の店を持つことは、和孝にとって人生の節目であり、大きな意味を持つ。古臭い言い方をするならば、一国一城の主になる以上、自分のできる限りの努力をしようと腹を括る契機になった。
 どうやら久遠もどこへ向かっているのか察しているようで、黙ったまま和孝の好きにさせてくれる。
 まもなく目的地に近づき、最寄りのパーキングに駐車すると、はやる気持ちを抑えて徒歩で向かい―2、3分後には店の前に立っていた。
「オフィス街から近いのに、大通りに面してないから静かで、ここに決めてよかった」
 少しの照れくささと緊張もあって早口でそう言いながら、ドアを開ける。
 一歩店内へ入ると、新しい木材の匂いを感じて思わず大きく息をつく。そして、店内を見渡してから、背後の久遠を振り返った。
「テーブルもこれからだし、厨房の準備もまだ途中なんだけど、とりあえず工事が終わったから、あとは2週間後の開店を目指すだけになった」
 店を出すにあたって久遠から特に助言等はなかったし、久遠自身が客として店に来ることはないだろうが、気に入ってほしいという気持ちはある。
 なぜなら自分が一刻も早く一人前になりたいと思う理由のひとつが、久遠に認めてほしいということだからだ。
「なるほどな」
 店内を眺めていた久遠が、こちらへ顔を向け、ふっと目を細めた。
「意外というか、らしいというか」
 正反対の感想を聞いて、首を傾げて久遠を見返す。真意はすぐにわかった。
「高級感を前面に出すのかと思っていたが、そうだな、おまえなら、こうなるか」
 つまり、BMを愛してやまなかった人間ならもっとラグジュアリーな雰囲気の店にしてもおかしくないが、和孝個人はずっと庶民的な男だという意味なのだろう。
「まあね。俺自身はごく普通だし、普通が一番だって思っているからね」
 特殊な世界に身を置いていたからこそ、普通であることの大切さを実感している。
 現在もそうだ。1日でも長く普通で平穏な暮らしが続けばいいと、毎日祈っているのだ。
 もとよりBMへの感情はまだ強く残っている。しかし、なくなってしまった以上、前に進まなければならない。
 27歳の、柚木和孝として。
「テーブルもウォールナットで揃えるつもり。あたたかみのある店にしたいんだ」
「そうか」
 久遠からの言葉はそれだけだ。
 それだけで十分だった。
「こっちが厨房。動きにくかったら大変だから、自分の動線を把握するのに何度もシミュレーションしたんだよね。あ、あとさ」
 久遠が黙ってつき合ってくれるので、店内を歩き回りながら一々説明していく。存外自分が浮かれていることに気づかされた。
「また津守くん、村方くんと一緒に働けるし、俺としては、これほど心強いことはないかな」
 とりあえずいったん落ち着こうと、深呼吸をする。が、久遠が肩に手をのせてきて、
「よかったな」
 などと言ってくるから落ち着くどころではなかった。いっそう昂揚し―感情的にすらなりそうで、和孝は唇を引き結んだ。
―うん」
 おそらく久遠には和孝の気持ちが伝わっているだろう。いま一度店内を見渡しつつ、久遠とふたり、この場に立っている幸運を嚙み締める。
 いろいろなことがあったが、重要なのはいま、そして、この先だ。
 これからも何度か節目はあるだろう。そのときにまた久遠と並んでいられたらいい、それは和孝の本心だった。
「店名は決めたのか?」
 この問いには、笑顔で頷いた。
「当然。津守くんと村方くんも、それしかないって賛同してくれた」
 そう前置きすると、少しもったいぶって間を開けてから、
「Paper Moon」
 唇にのせる。その名称には、すでに愛着すら湧いていた。
「これ以上ふさわしい名はない、か」
「だろ?」
 久遠の言うとおりだ。自分たちの店に、これほどぴたりとはまる名は他にはない。
「さてと」
 和孝は、カウンター席のスツールを引き、そこへ座るよう久遠を招いた。
「『Paper Moon』第一号のお客様に、これから味見をしていただこうと思ってますよ」
 そう言うが早いか、和孝自身は持参したエプロンをつけ、厨房に入る。あらかじめ下ごしらえをしておいた食材を取り出すと、早速、調理にとりかかった。
「その姿も見慣れてきた」
 微かに揶揄が滲んだ口調に、和孝も同意する。なにしろ少し前まで、キッチンに立つのはコーヒーを淹れるときくらいで、まさか自分が料理をしようなんて、しかもそれを仕事にすることになるとは、想像もしていなかったのだ。
 人生、なにが起こるかわからない。
「板についてきただろ?」
 多少の照れくささもあり、茶化した言い方をして肩をすくめる。
「ああ、なかなかだ」
 久遠の返答に思いのほか嬉しくなり、話すつもりのなかったことまで口にのぼらせていった。
「孝弘から聞いたんだろうね、じつは、一昨日、父親から気の早い祝いの品が届いた」
 まさか孝弘に口止めするわけにもいかず、早晩父親の耳に入るだろうと予測していたが―開店祝いの品が届いた際には冷静ではいられなかった。結局、封すら切らず、中身がなんなのか知らないまま寝室の隅に押しやってある。
「返送しようかとも思ったけど、なんだかそれも、俺だけが気にしてるみたいで厭なんだよな」
 調理に集中する傍ら、ときたま、ぽつりと話す。愚痴をこぼす相手として、久遠ほど適役はいない。
 求めない限りよけいなアドバイスをしてこないうえ、黙って聞き流してほしいというこちらの意図を正確に汲んでくれる。かといって、掘った穴に叫ぶのとはちがい、妙に気が晴れるのだ。
 それは、和孝の声にちゃんと耳を傾けてくれているのがわかるからだろう。
「よし。できましたよ」
 言いたいことだけ言って、すっきりした気分で料理をカウンターに並べていく。
 時刻が時刻なのでフルコースとはいかないものの、なにしろ第一号の客なので心を込めて調理した。
 チーズとトリュフを使ったニョッキ、真鯛とカブのカルパッチョに、隠し味でイチジクの果汁。ローストした牛肉には、アンティボワーズソースを添えて。
 オレンジをのせた白ワインのゼリーは、食事が終わったあと、コーヒーとともに出す予定だ。
 スパークリングワインを用意し、厨房を出て隣のスツールに腰かけた和孝は、久遠と自分のグラスに注いだ。
「『Paper Moon』の開店と、お客様第一号に」
 グラスを掲げると、
「新米シェフに」
 久遠がそう付け加える。乾杯し、並んで遅い夕食をとり始めたが、
―シェフか」
 いまさらながらにその一言がしみじみと胸に響いた。
 BMのマネージャーという肩書があったけれど、これからはなんの後ろ盾もない。ただの新米シェフだ。それがなんだかくすぐったくて、どこか新鮮な心地だった。
「頑張んなきゃ」
 これまで心の中だけで思っていたことを、あえて口に出してみる。
「津守くんと村方くんを無職にするわけにいかないし」
「そうだな」
「久遠さんにお金返さなきゃいけないし」
「それもあったか」
 いよいよだ。あと2週間で、『Paper Moon』が開店する。
 あらためて実感した途端、鼓動が速くなった。まだ一口しか飲んでいないのに、頰、いや、身体じゅうが熱をもつ。
 緊張とも動揺ともちがう、初めて経験する感覚は、きっといま、この瞬間だけのものだろう。
 存分に味わうか。そう決めた和孝は、その後2時間、久遠とともに特別な夜を心ゆくまで堪能した。