講談社BOOK倶楽部

special story

WEB限定小説

「龍&Dr.」シリーズ
ツイッター連載・ひなまつりスペシャル書き下ろし

「三月の憂鬱」

樹生かなめ

『龍&Dr』

 俺、眞鍋組の卓は、桃の節句が近づくと母を思いだしてナーバスになるが、ショウに真剣な顔で尋ねられて一気に吹き飛んだ。「卓、ひなまつりって、餅をついてひなあられと手巻き寿司を歳の数食べる日だよな?」と。

 俺はショウの桃の節句に対する誤解に驚くあまり声が出ず、隣にいた宇治の肩を叩いて、託した。けれど、頼りになる武闘派幹部候補は真顔で言った。「ひなまつりとは風呂に柚子を入れて、ちらし寿司を食べる日だ」と。

 俺はショウと宇治の桃の節句に対する誤解に驚愕し、開いた口が塞がらないが、必死になって安部のおやっさんの腕を摑んだ。なのに、昔気質の極道は堂々と言った。「ひなまつりとはひな人形の前でお経を唱える日だ」と。

 俺はショウと宇治と安部のおやっさんの桃の節句に対する誤解に動揺した。縋るように、談合から帰って来たばかりの二代目組長に話を回す。けど、命を捧げた漢は言った。「ひなまつりとは女たちから呼ばれる日だ」と。

 俺は二代目組長の桃の節句に対する誤解に呆れ果てたが、眞鍋組の頭脳と目される幹部のリキさんに救いを求めた。けれど、最後の頼みの綱は淡々と言った。「ひなまつりとは女が甘酒を飲んで、長刀を振り回す日だ」と。

 俺は二代目組長や幹部たちの桃の節句に対する誤解に慌てふためいた。二代目やリキさんまで信司になっているっ、と自制できず口に出してしまう。摩訶不思議の冠を被る信司と並べるのは最高の侮辱になりかねないのに。

 言い過ぎた、と俺は後悔したが、二代目は怒るどころか楽しそうに言った。「卓、お前と祐以外は無骨な男ばかりだ。荒っぽいことは俺たちに任せろ。それ以外は頼む」と。眞鍋の昇り龍、これ以上、惚れさせるなよ。



 指定暴力団・眞鍋組総本部にひな人形が飾られたことは一度もない。桃の節句が話題になったこともないという。
 ただ、桃の節句が近づけば、卓は母親を思いだしてナーバスになる。日頃、深淵に沈めていても、桃の花の前で微笑む母親が瞼に焼きついて離れない。無力だった自分、世間知らずだった自分、不甲斐ない自分、と卓は過去の自分が腹立たしくてたまらないのだ。過ぎ去ったことはどうしようもない。どんなに悔やんでも仕方がないのに。
 母親を連想させる桃の節句が苦しい。けれど、眞鍋組の面々の桃の節句に対する誤解で母親の面影が一気に吹き飛んだ。凄まじい破壊力だ。
 二代目組長に捧げた俺の気持ちは変わらない。
 生涯、俺の命は二代目のものだ。
 命に代えても二代目と二代目姐は守る。
 それだけに、この節句の誤解は解いておきたい。今後、どこでどんな恥を搔くかわからないから、と卓は冷静な声を上げた。
「二代目、リキさん、おやっさん、ショウ、宇治……みんな、聞いてください。今から桃の節句、三月三日のひなまつりについて説明します」
 卓は懇切丁寧に桃の節句について言葉を重ねたが、眞鍋が誇る龍虎コンビの無表情ぶりが冴え渡り、昔気質の重鎮の顔は渋くなり、武闘派幹部候補は石化した。おそらく、理解できないのだろう。
 どうしてわからないんだ、と卓は不思議でならない。
 二代目組長は極道の世界に入る前は成績優秀な優等生で今では兜町でも評判の切れ者だし、眞鍋の虎にいたっては国内で最高の偏差値を誇る大学に現役で合格し、優秀な成績で卒業している。ショウはともかく宇治や舎弟頭は馬鹿ではない。
「卓、東北東に向かってロールケーキを齧りつく日と同じようなもんだな?」
 ショウに神妙な面持ちで言われ、卓は顔をヒクヒクと引き攣らせた。
「ショウ、俺は真剣に眞鍋の特攻隊長の頭の中を心配する。信司はひとりでたくさんだ」
「馬鹿野郎、俺と信司を同じにするな」
 ショウに襟首を摑まれそうになったが、宇治が慌てて止めてくれる。自慢にもならないが、腕力勝負では太刀打ちできない。
「俺の説明はわかりづらいか?」
 卓は幼い子供に接するように、改めて簡単な言葉でゆっくり説明した。不夜城を支配する男たちは真顔で聞いている。
「要は女のまつりだな?」
 ショウはショウなりに、桃の節句を嚙み砕いて理解したらしい。確かに、一言で言い表せば桃の節句は女子のまつりだ。
「そうだ」
「女子会だな?」
「……違う。女の子の健やかな成長や幸せな人生を願う行事だ」
「じゃあ、キャバ嬢やソープ嬢とは関係ないのか? もうキャバ嬢やソープ嬢は成長しているぜ?」
「成長しても、結婚して子供を産んでも、桃の節句を楽しむ女性はいる」
 俺の母親みたいに、と卓の脳裏に桃の花の前で微笑む淑やかな母親が浮かんだ。祖父母から贈られたという豪華なひな人形を大事にしていたのだ。ちらし寿司やハマグリの吸い物、菱餅が美味しいから、卓は母親のひなまつりにつき合った記憶がある。母は綺麗な声でひなまつりの歌を歌った。
 チクリ、と胸が痛む。
 けれど、つい先ほどのような痛みではない。
 何せ、目の前にズラリと並んだ無骨な男たちに対する懸念で、過去を悔やんでいる暇がない。
 卓は必死だったが、眞鍋の男たちも真剣だった。
「ちらし寿司より五目チャーハンがいい。菱餅より叉焼饅頭がいい。ハマグリの吸い物よりカレーがいい。ひな人形より生身の女がいい。桃の花よりニンニク入りのギョーザがいい」
 ショウに真面目な顔で言われ、卓はがっくりと肩を落とした。
「ショウ、それはもう桃の節句じゃない」
「俺たちには関係ないまつりだよな?」
 ショウが同意を求めるように周囲に視線を流すと、眞鍋の昇り龍や虎、昔気質の重鎮や武闘派幹部など、それぞれ真摯な目で頷く。
「ショウ、最初に桃の節句について聞いてきたのはお前だ……」
 卓が呆れ顔で口にした言葉を遮るように、空気清浄機に見えるスピーカーから信司の声が響いてきた。
『祐さんから歌えと言われたひなまつりの歌を歌います。作詞は祐さんです。それでは聞いてください』
 ゴホン、と信司がわざとらしい咳をした後、桃の節句につきものの歌が聞こえてきた。
『明りをつけましょ 爆弾に ドカンと一発 清和クン 舎弟たちの 首ちょんぱ 今日は楽しいひなまつり』
 知っているメロディーラインに不吉な歌詞、と卓が真っ青になるや否や、安部と宇治が土色の顔で走って行った。
 さっさと仕事をしろ、という祐の脅しにも似た叱責だ。
 卓は組長室に向かおうとする清和を止めた。
「二代目、注意する必要はないと思いますが、ご自身の桃の節句に対する見解は姐さんに一言も漏らさないほうが賢明です」
 卓はいつもよりトーンを落とした声で、不夜城の覇者に助言した。二代目姐は楚々とした美貌を思い切り裏切る性格の持ち主だ。女たちから呼ばれる桃の節句など、一言でも漏らしたら嫉妬の嵐が吹き荒れる。被害は二代目だけに留まらず、眞鍋の兵隊たちも巻き込まれ、どうなるかわからない。一歩間違えれば、眞鍋組の魔女こと祐の怒りを買って、さらに複雑にこじれる。
 卓は最悪のパターンを想像し、背筋を凍らせた。それこそ、ショウや宇治たちが『ほかの暴力団と戦争しているほうがマシ』という事態だ。
「……妬くか?」
 清和に怪訝な目で問われ、卓は明瞭な声で断言した。
「姐さんならば確実に妬きます」
「なぜ?」
「姐さんだからです」
 白百合と称えられる美貌の二代目姐に、卓は幾度となく心臓を止められた。……心臓が止められたと思うことがあまりにも多発した。眞鍋組随一の策士が命名した『核弾頭』の名は伊達ではない。
「商売女だ」
「たとえ、相手が夜の蝶の営業でも姐さんなら妬きます。注意してください」
「わかった」
「ショウも姐さんを煽るようなことを漏らすな。いつも一言多い」
 卓は二代目組長からショウに視線を移し、きつい声音で注意する。本来、二代目姐の見張り兼送迎係は眞鍋組最速の男だ。
「卓、俺を誰だと思っていやがる。姐さんの焼きもちで俺は何度も三途の川を見た。地獄の門番にも会ったぜ」
 ショウは腕を組んだ態勢で鼻を鳴らした。
 一抹の不安を抱いたが、卓は念を押したりはしなかった。……否、しつこく注意を繰り返しても同じ結果だったのかもしれない。
 桃の節句に関し、口火を切ったのは二代目組長でもなければ迂闊な韋駄天でもなく、日本人形のような二代目姐だった。
「清和くん、ひなまつりに何かするの?」
 最愛の姉さん女房からの予期せぬ質問に対し、不夜城に君臨する極道が固まった。いろいろと脳内で考えているのだろう。
 卓がフォローしようとした瞬間、単純単細胞アメーバが慌てたように言った。
「姐さん、二代目はキャバ嬢に泣きながら呼ばれても行かねぇっス」
 爆弾が投下された。
 ショウの勘違いですから聞き流してください、と卓が口を挟む間もなく、楚々とした二代目姐が般若と化した。
「……や、やっぱり清和くんはひなまつりに若くて綺麗な女の子と遊ぶんだねーっ」
「やべっ」
 ショウは慌てて自分の口を塞いだが、もはや手遅れだ。卓はこめかみを揉みつつ、命を捧げた二代目姐の声に耳を傾けた。
「毎年毎年、ひなまつりはクリスマスやバレンタインと同じぐらい若い女性が救急車で運ばれてくるんだ……そ、それもとんでもないところがとんでもないことになっていて……独身の男性医師は参っているのに……僕も困る……どうしてあんなことを恋人とするの……」
 氷川は血走った目で一呼吸置いてから、清和のネクタイを引っ張った。
「……清和くんも女の子にあんないやらしいことをして、救急車で搬送させているの? 僕の清和くんなのにほかの女の子と……若くて綺麗で胸の大きな女の子と……AVみたいな……AVごっこみたいな……」
 卓は首まで真っ赤になった氷川を見つめ、違和感を抱いた。普段と同じように白いシャツを身につけている。今朝、出勤時に着ていた白いシャツだが、どこかおかしいような気がしてならない。
 ……え、姐さんのシャツの二番目のボタンが違う?
 ……あれはボタンに見える。
 ボタンに見えるけれど盗聴器か?
 盗聴器だよな、と卓が確信を持った時、清和はほっそりとした恋女房を問答無用の強引さで抱き締めた。
 ぎゅっ、と。
 美丈夫に抱き締められる清楚な内科医は一枚の絵になる。しかし、卓は見惚れたりはしない。
 清和が宥めるように十歳年上の幼馴染みにキスをした。
 一瞬にして、般若化が解かれる。
「……せ、清和くん、こんなことで誤魔化されたりしないからねっ」
 氷川が潤んだ目で言った時、シャツの二番目のボタンは外れていた。清和の手がさりげなく卓に向けられる。
 その大きな手には盗聴器があった。
 さすが、切れ者と評判の昇り龍、と卓は感心しながら無言で盗聴器を受け取り、ショウとともに二代目組長夫妻からそっと離れる。
 当然、卓とショウは一言も話さないし、幹部がいるところや重要な場所は通らない。
 いったいどこの誰がいつ、二代目姐に盗聴器を仕掛けたのだろう。眞鍋組最大の弱みにはずっと諜報部隊のメンバーがガードについていたのに。
 いやな予感がするが、怯えたりしない。どんな敵であれ、信頼できる男たちとともに二代目組長についていく。それだけだ。