『精霊の乙女 ルベト 運命の人』番外編
「双飛(そうひ)の翼無きも」
相田美紅
深夜、始禁殿(しきんでん)に、幽霊の奏でる二胡(にこ)の音が響く。
始禁殿を守る守備兵の間で、そのような噂が流れだしたのはつい最近のことだ。
王族の居殿が並び立つこの宮に、楽師がひとりもいないとは言えない。だが、少なくとも、始禁殿には楽師はいないはずである。にもかかわらず、深夜、女の声のような、か細く張り詰めた旋律が寂しく虚空に響いている。
「俺も聞いたんだよ、その二胡の音を……!」
「ばかばかしいなぁ」
力説する竜原(りゅうげん)を、馬董(ばとう)が一蹴する。
朱夏殿(しゅかでん)の談話室。
続きを読む
そこでは、二人の男が向かい合って座っていた。ひとりは剣の手入れをし、ひとりは難しい顔で腕組みをしている。
「周知のとおり、始禁殿内に楽師はいない。よその殿から音が流れてきているんじゃない?」
「だが、爪で戸を搔く音や、回廊に白い人影を見たという者もいるのだぞ! 侵入者かと辺りをくまなく探し回ったが、誰もいない。そんな話が、三件あがっている。一部の兵達は怯えて、士気が下がっているようだ」
「だったら、早急に真偽を確かめて対策を打つべきだよ」
まるで意に介する様子のない馬董に、竜原は眉間に縦皺を浮かべて円卓を叩いた。
「馬董。おまえ、この朱夏殿に在籍する長の一員だろう! 部下の不安を拭うため、噂の真偽を確かめて来てくれ!」
「俺は近衛兵をまとめるのが仕事。始禁殿内の守備兵の監督は竜原の仕事。きみが行くべきだと思うんだけど?」
馬董は手を止め、いかにも不服な顔を作って竜原を見た。しかし竜原は顔面蒼白になって、ずいと身を乗り出す。
「ばか野郎。俺は幽霊や妖怪の類が死ぬほどダメなんだ!」
――それに、もし幽霊でなく侵入者だったとすれば大ごとだぞ。万が一、王に危害が及べば、俺だけじゃなくおまえも近衛兵長としての責任を問われるんじゃないか。
その一言が決め手になって、馬董の仕事に夜の見回りが加わった。
(面倒だけど、殿を出されちゃ仕方ない)
馬董はひとり、誰もいない回廊を進む。庭に面しているため、視界の端には草木の影が鬱蒼(うっそう)としていた。
月の出ない夜、湿った風がどこからか吹き込む。輪郭の曖昧な闇の中、吊り灯籠からは小さな灯りが漏れ、風で揺れると鬼火のように見える。石造りの床にうっすらと反射して、幻の世界を目の当たりにしているようだ。虫の鳴き声だけが寂しく響いている。たしかに、こんな夜ならば幽霊のひとりやふたり出ても不思議ではない気がする。
馬董はありもしない幻影を思い浮かべて、軽く身を震わせた。
気を紛らわせるのに、鼻歌でもひとつ……と思ったところで、何かが軋むような音がした。
どこかで戸でも揺れているのか。馬董は辺りを見回すが、灯籠の灯りだけが音もなく浮いている。
ぬるい風が項を撫でた。虫の鳴き声は、いつの間にか途切れている。
空耳だということにして、足早に過ぎ去ってしまおうか。そう考えた馬董の耳に、またしても音が聞こえた。キィーと、今度は長く続く。
キィー。キィー。キィー……。
渇いた響きに、喉が震えているような長音。聞き覚えがある。これは戸の軋みなどではない。
「二胡の音……」
単調な長音は、次第にゆるゆると緩急をつけ、やがて旋律を奏で始めた。遠くから、女の声のように聞こえる。か細く、張り詰め、息遣いさえ感じる生々しさがある。まるで歌っているようだ。
――深夜、始禁殿に、幽霊の奏でる二胡の音が響く。
「これか……」
馬董は呟いて、耳を澄ました。目を閉じて、聴覚に意識を集中させる。いったい、どこから音が流れてきているのか。
音に誘われるようにたどり着いたのは、来客用の小部屋だった。
客室にしては窓が庭に面しておらず、規模もかなり小さいため、あまり使われることのない部屋だ。
馬董は片手で剣の柄を握り、扉に指を掛けた。慎重に、息を殺して押し開ける。
馬董の視界に、長く垂れた黒髪と二胡を弾く白い手が飛び込んできた。それが男か女かも分からないまま、鞘から引き抜いた剣を突き付ける。二胡の弓を操る手が止まった。
女ではない。男だ。俯いているため顔は見えないが、体付きが男のそれである。白い寝衣に肩掛けをはおった程度の薄着。黒髪は胸の下まで長く、青白い腕に血の気はなかった。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花ってね。観念してもらおうか」
馬董の言葉に、その黒髪の幽霊はゆるゆると面を上げた。
顔にかかっていた髪が滑る。細い眉に、切れ長の目。陶磁器のように白い肌。
馬董の険しく細められていた目が、みるみる見開く。
「と、殿!?」
「私は、幽霊になった覚えはないのだが」
馬董は突き付けていた剣を慌てて下げると、その場に片膝をついて拱手した。
「なぜ、殿がこんな時間に、こんな場所でこんなことをしてらっしゃるのです?」
状況が飲み込めないまま、馬董は玄柊(げんしゅう)を見上げる。玄柊は表情を崩さないまま、構えていた二胡を膝の上に置いた。
「おまえこそ、こんな夜更けに何ごとだ」
「俺は、このところ始禁殿で幽霊……いえ、見回りの途中、二胡の音が聞こえたものですから、何ごとかと思いまして」
「ああ……音が漏れていたか」
僅かな羞恥を浮かばせて、玄柊は視線を二胡に落とした。
「楽師の真似事だ。聞き苦しいものを聞かせたな」
「聞き苦しいだなんて。まるで、弦が歌っているようでしたよ」
馬董の本心からの言葉だ。だが、玄柊はそれに答えず、小さく息を吐くだけだった。
「そんなところに膝をついていないで、椅子に座れ」
促されて、馬董は玄柊の隣の椅子に腰かけた。
椅子が二脚と、机が一台。造りは豪華だが、他には何もない小さな部屋だ。机の上に置かれた角灯から、柔らかい灯りが零れている。
「南アワイで、美しい二胡の音色を聞き、素晴らしい舞を見た」
視線を落としたまま、玄柊が話し始める。馬董は体をわずかに傾けて、玄柊へと視線を注いだ。陰を落とす瞼。薄い唇。二胡に添えられた玄柊の手は節が大きく、骨ばっていて、血の管が薄く透けていた。
この白い手は冷たいのだろうか。それとも、温かいのだろうか。
馬董は話を聞きながら、ぼんやりとそんなことを考える。
「不思議なものだ。周囲一帯は砂で覆われているというのに、町の中だけ水が豊かでな。様々な顔付きと肌の色をした者が、町の中を行き交っていた」
「あそこは人と物の貿易地点ですからね。あらゆるところから、あらゆるものが集まります。水の豊かさは、光と水の乙女・アウロラの守護の賜物だとか」
そうか、と、玄柊は短く答える。
「私は、生まれた時から玉座を定められた身だ。しかし、もし王でなければ、旅の楽師も良いかもしれんな」
僅かな沈黙の後、白い指が琴筒を撫で、棹(さお)を辿り、弦を爪先で弾いた。
「……だが、ありえぬことだ」
玄柊の黒髪がひと房乱れて、頰にかかった。馬董は手を伸ばし、そのくずれた髪を後ろに流す。
玄柊は視線だけ動かして馬董を見上げた。
「そのときはお供いたしますから、一緒に各地を見て回りましょうね」
大げさな笑顔を、馬董は作る。
「そうですねぇ、春には、湖のある町に行きましょう。雨の時には大樹の下で雨宿りをして、雪が降れば宿で楽器を弾いて過ごしましょう。殿の腕前なら、日銭にも困りませんよ」
――この人を連れて、渡り鳥のように町から町へ旅をする。
馬董の脳裏に、夢幻の日々が広がる。
この人の足で徒歩は厳しいだろうから、小さな馬車を用意しよう。俺はどこでだって眠ることができる。金銭が足りなければ、この人には部屋を借りて、俺は厩で寝ればいい。手を汚すことにも抵抗はない。日銭が尽きれば、ひとつふたつ仕事を受ければいいだけのことだ。
再び、弦の弾かれる音。馬董は空想から現実に引き戻された。
「それは何とも、夢のような話だ」
玄柊の言葉に、馬董は軽い落胆を覚えつつ、おどけて見せる。玄柊はそんな馬董を一瞥し、出し抜けに詩歌を口ずさんだ。
身に双飛の翼無きも、情に関せず。相逢うて、心通うあり。私語し、共に誓盟を求む。
「殿、それって……」
突然のことに、馬董は作り笑いを忘れてしまう。
「夢のような話だが、さぞかし楽しいだろうな」
そう言って玄柊は顔を上げた。その藍色の目は、どこか遠く、異国の地を眺めているようだ。
馬董は主の横顔を見つめて、静かな笑みを浮かべる。
西の娘に教わった、異国の歌が馬董の耳に蘇る。どこか寂しいその旋律は、荒涼とした大地を思わせた。
「いつかきっと、お連れしますよ」
鳥のような翼はなくとも、夢を見ることは自由だ。
「期待はせずに、待つとするか」
玄柊は頷かなかったが、そのかわり、口元をうっすらと微笑みで染めた。再び二胡を構え、奏で始める。
いつかきっと、この人を連れて異国の大地を踏もう。馬董は瞼を閉じて、二胡の音色に遠く想いを馳せた。
終
閉じる
著者からみなさまへ
「精霊の乙女 ルベト」シリーズ最終巻です! 今回の試練は、王宮に渦巻く陰謀です。宦官の企みに利用されようとしているニグレト。それを阻止したいルベトですが、尚の重要な儀式の最中、異変が起こり……。訪れる最大の危機に、どうなることかと自分でもハラハラしながら書きました。王宮に迫る災いの影、駆けるルベト、それぞれの恋の決着。読後には、爽やかで少し切ない気持ちになってもらえれば嬉しいです。どうぞよろしくお願いします!