『フェロモン探偵 花嫁になる』特別番外編
「兄のDNA」
丸木文華
「ところでお前、いつまで映と一緒にいるつもりなんだ? 龍一」
「……は?」
映さんが実家近くのアトリエで作業を開始してから間もなくのこと。
映さんの兄であり俺の大学の同級生だった夏川拓也と久しぶりに飲んでいる最中、藪から棒にそんなことを質問してきた。
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「いや、いつまでって……別に離れる予定もないけど」
「えー! だって映はもう実家に戻ったも同然だし、お前がずっと張りついてなくてもよくない?」
「いやいや……ちょっと待て」
一体俺は映さんの何だと思われているのか。
夏川には以前ばっちりキスシーンを目撃されているはずだが、まさかまだ俺たちの関係に気づいていないのだろうか。
(いや、大いに有り得るな……俺たちのことを自ら察して言い当てたのは映さんの妹の美月さんだけだ。ご両親はルームシェアの相手だと思ってるようだが、もしかすると薄々感づいているかもしれない。だが夏川は確実に全然わかってない。というか可能性を考えてもいないんだろう)
人は絶対に認めたくない物事に遭遇すると、自然と自分を誤魔化そうとして目の前にあるものをスルーしてしまう。夏川の場合はそれが人一倍というか人百倍大きいに違いない。
そのとき、ふいに俺の中でとある疑問が頭をもたげる。
映さんのフェロモン体質は異常だ。特に最近は人智を超えたものがある。
夏川の映さんへの執着は病的であり行き過ぎたブラコンとばかり思っていたが、もしかすると映のその体質が影響しているのだろうか。
「あのさ……お前にとって映さんって何なの」
「は? 天使」
間髪容れずに答える迷いのなさ。当然のことをなぜ訊ねるのか、とでも言いたげな顔で首を傾げる様子に狂気を感じる。
「何わかりきったこと聞いてんだよ。映が天使なのは世界共通の常識だろ?」
「あー、そうなのか」
「え!? じゃあお前にとって映は何なんだよ」
自分にとって映さんとは稀代のアーティストであり、世界で最もエロい生き物である。などと口にできるはずもなく、何と答えたらいいのか逡巡する。
「仕事のパートナーだし……尊敬してるよ。色々と」
「ふん。まあ、生まれたときから映を見てる俺とは年季が違うからな。いかに映が天使かわからないのも仕方ないよ」
なぜか妙な上から目線になる夏川に、俺は何とも名状しがたいイラつきを覚える。
そんな俺にはまるで気づかず、夏川はうっとりとした目で一人過去を反芻し始めた。
「映はさ……本当、生まれたときから天使だったんだよ……俺がちょっと手を差し出したら、その指をぎゅって可愛く握ってくれたんだ……愛らしい笑みを浮かべてさ……俺は感激で胸が詰まったね。俺はこの子を幸せにするために存在してるんだって確信した。運命を感じたんだよ」
「赤ん坊が何か握るのって普通の反射じゃなかったか」
「やっぱりさぁ、弟って特別なんだよ。龍一は弟と同時に生まれたからよくわかんないかもしれないけど、俺はあんなに可愛い生き物の存在を知らないね。映が生まれてからもう他の老若男女すべてがぼやけて見えるんだよ。映の天使みたいな愛らしさに比べたら月とスッポンどころじゃなく差があり過ぎてさ……しかも成長するのをずっと見守ってるとさ、もう一日一日が宝物なんだよ」
「ところで妹の美月さんの存在はどうなってるんだ」
「映の発する天使オーラってやつがさ、もう神々し過ぎて俺は心配なんだ。いつか映が天に帰っちゃうんじゃないか、って……。だってあんなに天使みたいな子が普通の人間のはずないだろう? 映が生きていくにはこの世は汚過ぎる! だから俺はなるべく映の周りだけでも綺麗な世界にしてやらなきゃいけないんだ。俺は映から離れることなんて生涯できないんだよ!」
すでに俺が何を言ってもまったく聞いていない。自分の世界に入ってしまいひたすら映さんを賛美する、よくわからないことを喋り続けている。
夏川のこれが果たして映さんのフェロモンによるものなのかどうか、俺にはわからない。ただ、この兄貴には弟の異常体質が他の男たちとはまた別の形で影響していることは間違いないだろう。
父親の方は息子に対して至って普通の接し方に見えるのだが、なぜ夏川だけがこんな風になってしまったのだろうか。
弟語りモードに入ってしまった夏川とは会話にならなかったので、後日、映さん本人に兄のことを訊ねてみた。
「映さん。あなたの兄さんはなぜあんなことになってしまっているんですか」
「それを俺に聞くのかよ……」
作業の合間の一休みに夏川の話題を出すと、露骨にウンザリした顔で映さんはため息をつく。
「知らねぇよ。昔からああだもん」
「夏川は映さんが生まれてすぐに運命を感じたそうです。自分は弟を幸せにするために存在するんだと」
「ああ、言いそう。噓偽りなくそう感じたんだろうよ。身を以て知ってるし」
どういうことですか、と訊ねると、映さんは苦笑して肩をすくめる。
「俺って知っての通り、トラブル体質じゃん。だからわりと危ない目にあったりしてきてるんだけど、その度アニキが体張って助けようと頑張ってくれたよ。大半役立たずだったけど、まあ必死さは本物だし」
「へえ……そうなんですね」
「何回か誘拐されかけたりもしてさ、アニキは俺を乗せた車の前に飛び出してそのまま轢かれたり、犯人に三階くらいから突き落とされてもすごい速さで上がって来て反撃したり」
「何であいつは生きてるんですか」
それらはまさしく夏川には、弟を守るという使命がDNAに刻み込まれているのかもしれないと思えるようなエピソードである。
一時映さんのフェロモンによって兄弟間にあるまじき感情が存在するのではないかと疑いもしたが、それはどうやら杞憂というか、そちらの方がマシというか、とにかく夏川にしかわからない、命をなげうっても弟を守るという壮大なナニカがあるということらしい。
「まあ……それで映さんが何度か救われているのなら、夏川に俺は感謝しないといけませんね」
「うん、俺もありがたいと思ってるよ。たださ、普段が普段だからさ……ずっと一緒にはいられないっつーか……限度があるっつーか」
「それはよくわかります」
映さんのこと以外ではそう奇妙な振る舞いをすることはないのだが、やはり弟が関わってくると一気にヤバさが全開になる。
これも特別な星の下に生まれた映さんの兄としての宿命なのか。または、夏川自身もそもそも特別な業を背負って生まれてきたのかもしれない。
まあ、自分としては映さんを守るという共通の立場があるのでよからぬ感情がなければ何でもいいのだが。
「でも、何でいきなりアニキの話? 何かあった?」
「いえ……ちょっと思うところがありまして……夏川に映さんのことを聞いたんですが、途中からまったく話にならなくなったもので」
「そりゃそうだろ。アニキに俺の話振るのが悪いよ」
もう兄の生態などすべて把握しているらしい。そりゃ、あれにずっと張りつかれてきた人生ならそうなるか、と思わずちょっと吹き出しそうになってしまう。
「あんたのことだから、また闇雲に嫉妬したのかと思った」
「夏川に、ですか? いや、さすがにあいつに嫉妬はできませんね。嫉妬というか……俺の至れない境地のようですから」
「当たり前だろ。アニキみたいなのが他にもいたらたまったもんじゃねぇよ」
そう言っておかしそうに笑う映さんを見ていると、先程の発言もどこへやら、やはり俺は少し嫉妬を覚えてしまうのだった。
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著者からみなさまへ
こんにちは。丸木文華です。フェロモン探偵シリーズ、今回で最終回となります。探偵ものにもかかわらず意外と書いていなかった、私の大好きなドロドロした村の因習ものをテーマに書きました。前回は雪也の過去の贖罪的な内容だったのですが、今回は映バージョンです。普通なら受けないような依頼を映が承諾した理由とは? そしてタイトルの通り、映は本当に花嫁になるのでしょうか。最後のフェロモン探偵、楽しんでいただけたら幸いです。