『眠れる森の夢魔 英国妖異譚SPECIAL』
特別番外編「シモン・ド・ベルジュの痕跡」
篠原美季
「これが、ベルジュの上着を預かった手」
自分の両手を出して自慢する生徒が、「昨日から」と続ける。
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「洗っていないんだ」
「え、汚くない?」
友人の突っ込みにも焦らず、その生徒は言う。
「大丈夫。汚れることをする時は、使い捨て手袋をつけているから」
「なるほど~」
「賢い」
「え~、いいなあ」
友人たちが羨ましそうに見守る中、その生徒は空に翳すように両手をあげてうっとりと言う。
「なんか、ベルジュの上着って、いい匂いがしたんだよね」
「へえ、香水かな?」
「かもしれない。柑橘系で、でも少し甘さもあって、すんごくいい匂い」
「そうなんだ」
「その匂いって、手に移らなかったのか?」
「どうかな」
言いながら、その生徒が自分の手の匂いをかごうとした時だ。
パシャッ
その生徒に向けて、輪の外から水がかけられた。
「うわっ! 冷てえ」
「カイル、大丈夫?」
驚いて輪を崩した生徒たちがまわりを見まわすと、すぐ近くに別の寮の生徒たちがたむろしていて、その中の一人が水のペットボトルを持っている。
水をかけたのは、間違いなくその生徒だ。
水をかけられた生徒――カイルが、いきり立つ。
「なにすんだよ!」
「バーカ。そっちが、変な自慢をしているから悪いんだろう。ベルジュはうちの寮長なんだから、お前らにあの人の持ち物を自慢する資格はない!」
ケンカを吹っかけてきた相手がヴィクトリア寮の寮生だとわかったカイルたちが、「だからって」と応戦する。
「水をかけることないだろう!」
「うるさい!」
言いながら、ふたたびその生徒が水をかける。
「その手から、ベルジュの痕跡が消えるまでかけてやる!!」
「ふざけんな、冷たいじゃないか!」
「成敗だよ!」
「言いがかりだ!」
「やっちまえ」
「おう!」
血気盛んな生徒たちの集まりであれば、ちょっとした言いがかりが取っ組み合いのケンカになるまでにさほど時間はかからない。
結局、通りかかった上級生に止められ、その場はひとまず収まったのだが、やはり取っ組み合いのケンカになったからには、それぞれの寮の寮長同士で話し合いの場を持つ必要があるため、すぐさまヴィクトリア寮にも使いが走った。
そこに至って、水をかけてしまった生徒とその友人たちも、自分たちのしたことが、結果的に敬愛するシモンの迷惑になると気づき、反省すると同時に顔色を蒼くした。これから、おそらく自分たちのせいで、シモンが相手の寮長に頭を下げなくてはならない。
そんなことになったら、自分たちが許せない。
だが、幸いなことにやってきたのは、シモンではなく、シモンの代理を名乗るマーク・テイラーであった。
相手側の寮長は、シモンが来なかったことを不服そうにしていたが、ラグビーの名選手でそれなりに人望のあるテイラーを相手に、あまり強くも出られず、ひとまずヴィクトリア寮を代表してテイラーがしっかり謝罪をしたため、事なきを得た。
そして、寮へと戻る道々、下級生たちがテイラーに謝る。
「……すみませんでした、テイラー」
「ああ、大いに反省してくれ。――まったく、人に水をかけるなんて、どんな理由があろうと紳士がやることではないだろう。もちろん、止めなかったお前らも」
「はい」
「ごめんなさい」
「バカでした」
「でも、あいつが、ベルジュの上着に触ったことをすごく自慢しているから、なんかベルジュを取られたみたいな気がして、悔しくて」
本当に悔しそうにしている彼らをチラッと見おろし、テイラーが呆れたように応じる。
「――アホか。たかが上着ぐらいで騒ぐな。お前らは、毎日だって、朝からあのバカみたいに整った顔を好きなだけ見ることができるし、うまくすれば、直接挨拶だってできるんだから、それを自慢すればいいだろう」
「たしかに」
「そうですよね」
「朝から晩まで、ベルジュは僕たちのベルジュなんだ」
テイラーは、「それはなんか違う気もするが……」と思ったが、余計なことは言わず、心に秘めておくことにした。
十分後。
ユウリの部屋でくつろいでいたシモンのところに、テイラーが報告に来た。
「――ということで、特に問題なく一件落着だ」
それに対し、優雅にソファーに座ったまま、シモンが心の底から礼を言う。
「ありがとう、テイラー。変なことを頼んでしまって、悪かったね」
「気にするな。――というか、あんたが出張ったところで、余計、ややこしいことになりそうな話ではあったし」
「うん。でも、本当に助かったよ」
そう言うシモンの横にいたユウリが、羊羹やせんべいなど日本から送られてきた茶菓子をてんこ盛りにしたお皿を差しだし、テイラーを労う。
「お礼じゃないけど、テイラー、よければ、一緒にお茶でもどう?」
「え、いいのか?」
「もちろん。たくさんあるから、好きなだけ食べていって」
「じゃあ、遠慮なく」
空いているソファーにドカッと腰をおろしたテイラーに、ユウリが「いちおう緑茶が合うけど、コーヒーか紅茶がよければ、淹れるよ?」と勧める。
「じゃあ、紅茶で」
そこで紅茶を淹れにユウリが席を立ち、せんべいを口に放り込むテイラーと、そのそばで優雅に日本茶をすするシモンが、どうでもいいことを話しながら笑い合う。
愛すべき日常が、そこにはあった。
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著者からみなさまへ
こんにちは、篠原美季(しのはらみき)です。『眠れる森の夢魔 英国妖異譚SPECIAL』です。「なぜ、今、『英国妖異譚』?」と思われる方もいらっしゃるでしょうが、まあ、原点回帰と思っていただけたらありがたいです。昔のキャラクターを書こうとすると手に馴染むまでに時間がかかりますが、馴染んでみれば、やっぱりセント・ラファエロ時代のシモンはかっこいいし、学校生活を書くのはとても楽しかったです。ぜひ、ご一読を!!