これは、イギリス西南部にある全寮制パブリックスクール、セント・ラファエロで実際に起こった話である。のちのち考えた時、ある人物をのぞいて、誰もそのことを本当にあったことだとは信じなかったのだが、それは確かに現実だった。それがいかに、笑ってしまうほど非現実的であったとしても、やはり紛れもない事実なのだ。
ただ、悲しいことに、認識されない現実は、もはや現実たりえないのが事実であって、そういう意味では、ついには一つの夢物語となってしまった悲しい側面も持っている。まあ、悲しいというか、むしろホッとしたというか、さらに突きつめればバカバカしいのかもしれず、とどのつまり受け取り方はさまざまであるが、なにはともあれ、すべての始まりは、秋本番にさしかかったセント・ラファエロの上空数百キロ……、いや、それでは大気圏を突破してしまうので、上空からわずかに次元のずれた、あるいは地底深く降りていくとたどり着くことができると伝えられるあちら側、すなわち「妖精の国(ティル・ナ・ノーグ)」でのことだった。
「ほう」
スミレやレンゲソウを敷きつめた花のベッドで不審そうな声をあげたのは、セント・ラファエロが内包する湖に住む妖精(ようせい)モルガン・ル・フェである。通称モルガーナと呼ばれる彼女の、半身を起こして相手を見る純白のかんばせは、この世ではありえないほどの麗(うるわ)しさだ。
彼女は、同じ声の調子で尋ねた。
「では、そなたが、悪戯(いたずら)妖精ロビン、いや、妖精王オーべロン殿の第一の従者であるロビン・グッドフェロウに代わり、人間界に届け物をすると申すのか?」
「その通りで、我が貴婦人様。不肖、私、オーべロン殿の第二の従者、いやいやこの場合、もはや名高き『ダームデュラック』、つまり『湖の貴婦人』であらせられるモルガーナ様の第一の従者と名乗っても近からず遠かりしということで」
「……それは、名乗る気がないということか」
「いやいや。だてに信頼が厚いわけではありませんと申したいので」
「はて。そなたと妾(わらわ)は初対面のはず。それなのに信頼が厚いとは、いかなることか?」
なかば呆(あき)れた口調で答えたモルガーナをまっすぐに見返し、自称妖精王の第二の従者は真面目くさった顔で応じる。
「いや、ですから、信頼が厚いわけではないと正直に申し上げている次第で。————おや、これはなんとしたことか。我が貴婦人様の麗しきかんばせの翳(かげ)り方ときたら、まるで夜空に輝く月に熊(クマ)がかかったかのよう」
「熊?」
「雲でしたか。まあ、この際どちらでも、隠してくれるのであれば、さしたる違いはありませんやね」
大違いである。いったい熊がどうやって夜空の月を隠すのか、ぜひとも訊(き)いてみたいところであるが、妖精の中でもとりわけ賢明なことで知られるモルガーナには、これ以上不毛な会話を続ける気はないようだ。「それはそうと」と、ざれ言を受け流し続けた。
「まだ、そなたの名を聞いていなかったと思うが」
「ああ、これはたいへん失礼をば、いたしました」
舞台役者のように足を後ろに引いて恭(うやうや)しくお辞儀をした悪戯妖精は、その姿勢のまま頭をあげ、得意満面に名前を告げる。
「我が名は、ピンチ」
「あまり歓迎したくない名前じゃの」
「ご冗談を。とんでもキューフン、歩いて10分、地球の周りをひとっ飛び。変幻自在の悪戯妖精。どんなピンチもピンチがくれば、たちどころにピンチでなくなる、ピンチ万歳のピンチでございますよ」
「よけいなピンチがやってきただけ、という気もするが」
聞こえぬほどの小声で呟(つぶや)き、モルガーナが腕を組む。
「はてさて、このようにふざけた使者を、あちらに送ってもよいものだろうか。いや、いいわけがない。おそらく迷惑千万この上ないはずじゃな。贈り物をするはずが、災厄を送り込んでは意味がない。やはり、ここはひとつ別の方法を————」
そんな結論に至って顔をあげたモルガーナは、目の前にいたはずの悪戯妖精の姿が消えうせているのに気づき、そばに仕えていた小さな妖精に問いかける。
「はて。ここにいた道化者の悪戯妖精はどうした?」
「はい、モルガーナ様。あの者であれば、はちみつ酒の壺(つぼ)を抱えたと思いましたら、『いざ、ホイ』と景気のよい声をあげると、あっという間に消えてしまいましたわ。目にも止まらぬ速さというのは、まさにああいうのを申すのでございますね。あれほどのスピードであれば、今頃は、もう地上に降りておりましょう」
「なんと————」
モルガーナは驚き、呆れる。
「届け先も聞かず、あのうつけ者は、どこにはちみつ酒を届けようというのか。思うたとおり、みずから進んでピンチに飛び込んでいくピンチ。あのような者をよこすとは、妖精王殿も人手不足なのか。だが、しかたないではすませられぬ。やはり文句の一つも言うておかねば」
そこで、香(かぐわ)しき花のベッドからスルリと降り立ったモルガーナは、大勢の小さな妖精たちが草花の茂みやキノコの陰から見守る中、輝ける衣の裾(すそ)をひるがえして歩き去っていった。