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ホワイトハート X文庫 | Web連載小説
セント・ラファエロ物語
~アナザーピープル~
篠原美季/著
「第3話」数学者と皮肉やの不審

 イギリス西南部にある全寮制パブリックスクール、セント・ラファエロでは、とある秋の一日が始まろうとしていた。
「よお、今日も早いな、ルパート」
 がらんとした早朝の食堂で、食後のコーヒーを飲んでいた皮肉屋のイワン・ウラジーミルが声をあげると、同席していた数学の天才であるジャック・パスカルも振り向いてあいさつする。
「やあ、ルパート」
「おはよう。――――っていうか、二人こそ、相変わらず早起きだよね」
 同級生の中でも、とりわけ成績優秀で知られるウラジーミルとパスカルが、たいした用事もないのに早くに起きだしているのは、ひとえに食後にゆっくりと新聞を読むためであるのを、ルパートは知っている。情報通を自認する彼ではあるが、こと時事問題に関してだけは、この二人に敵(かな)うものではない。
 だけど、考えてみれば、社会に出て情報通を自認したければ、身の回りのゴシップを拾うより、むしろ時事ネタに強くなるべきなのかもしれない。
 受験生の身でありながら、寝不足とは無縁の表情でコーヒーをすする仲間を前に、一考の余地ありと思いながらトレイをテーブルに置くルパートに、パスカルが応じた。
「まあ、ご覧のとおり、早いほうが食堂もすいていて、ゆっくり食事ができるから。……それより、ルパート。君こそ、この時間にいるということは、もしかして、またを捜しに行くわけ?」
「そうだよ」
 パスカルの横に腰をおろしたルパートは、すぐに皮肉ぽっく口元をゆがめたウラジーミルをチラッと睨(にら)んで、付け足した。
「言っとくけど、イワン。あんたがなんと言おうと、見たものは見たんだよ。そこは、譲らないから。絶対に見つけ出して、あんたのベッドに投げ込んでやる!」
「それは、楽しみだ。せいぜい期待して待っているよ」
 ウラジーミルがニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべて受け流すのも、無理はない。
 つい先日、ルパートが彼のぶどうを横取りしたハリネズミの話をしたことは、誰の記憶にも新しい。
 それはとうていありえない話で、ウラジーミルはもとより、比較的柔軟な考えの持ち主であるパスカルでさえ、どうしても信じる気になれないのであったが、情報通を自認するルパートは、自分の情報がまゆつばものと思われるのが何よりも屈辱だったらしく、あれからというもの、こうして朝早くに起き出しては、くだんの動物を捜し歩いているのだ。
 おっとりしているルパートにしては珍しく、ひどく意固地になっている様子を見て、パスカルは小さため息をついた。

ウェストミンスター宮殿に付属する時計塔ビック・ベン
ウェストミンスター宮殿に付属する時計塔ビック・ベン
 その時、背後で涼やかな声が響く。
「おはよう、パスカル、ウラジーミル、――――それにルパート?」
 振り返ると、そこには東洋的な風貌(ふうぼう)をしたユウリ・フォーダムが立っていて、その背後には全校生徒の憧(あこが)れの的であるシモン・ド・ベルジュの顔がある。
 朝日に劣らぬ輝かしさを持つフランス貴族の末裔(まつえい)は、ルパートの存在に気を取られたせいで、テーブルの角にぶつかってトレイを落としそうになったユウリの背後から手を伸ばして災難を事前に食い止めると、そのまま2つ分のトレイをテーブルにおろす。
 顔色一つ変えず、実にさりげなくフォローする様子は、万事においてそつのない貴公子だからなせる業なのか、単に、あまりにも頻繁にこういう場面に出くわすせいで、慣れているだけなのか。
(おそらく、両方なんだろうけど)
 実際、シモンの目が届かない場合、代わりになんやかやと世話を焼く立場にあるパスカルも、シモンほどさりげなくやる自信はないが、ユウリの突発的な挙動にはかなり慣れている。ただし、義務感というよりは、単純に手を差し延べたくなるだけの話で、そのことを負担に思ったことはない。
 ユウリという人間は、目を離したら消えてしまいそうな儚(はかな)さと、ついかまいたくなる愛嬌(あいきょう)を併せ持っているため、まわりにいる人間は、競い合って世話を焼こうとする。
 要するに、庇護欲(ひごよく)をそそられるのだ。
 そのことを、本人がどう思っているのかはわからない。
 むしろ、シモンのほうが、常に周囲を警戒しているくらいだろう。彼の手が、守護のために伸ばされているのか、独り占めするためにのばされているのかは、ほぼ境界線上にあって定かではない。
(なんといっても、けっこうわがままな人だから)
 上に立つ人間らしい鷹揚(おうよう)さとは別に、私的な部分に関していうと、シモンという人間は意外と独占欲が強く、特にユウリに関してはそれが顕著だった。それでも、生来の正義感と公正さと理知的な判断力で、他の追随を許さないほどユウリの信頼を勝ち得ている。
 けっきょく、二人の間に割って入れる人間はいないということだ。
 シモンとユウリと入れ替わるように、パスカルとウラジーミルが席を立つ。
 彼らも気が向くとここでそのまま無駄話をしていくが、たいていは日課となっている新聞を読むために談話室に向かう。
 ヴィクトリア寮(ハウス)の新館最上階にある談話室は、最上級生の監督生たちのものである。
 貴賓室と言われても頷(うなず)ける豪奢(ごうしゃ)な部屋は、毛足の長い絨毯(じゅうたん)が敷きつめられ、座り心地のいいソファーセットが置かれている。
 窓から朝日が差し込む中、新聞を取って窓辺のソファーに腰をおろしたウラジーミルに、ミニバーの前に立ったパスカルがきく。
「コーヒーと紅茶、どっちにする?」
「コーヒーがいい」
 そこでパスカルは、手早くコーヒーをいれてしまうと、カップの1つをウラジーミルに手渡して、きいた。
「何か、面白いニュースはある?」
「いや。相変わらずアメリカの景気が悪くなっているということくらいか。ただ、ここまでひどくなると、対岸の火事ではすまないだろうから、あまり面白いとはいえないな」
「確かにね」
 答えながら、パスカルも新聞を手に取る。ただし、「タイムズ」や「ガーディアン」などの英字新聞ではなく、フランスの「フィガロ」である。
「シモンの話では、一時期低迷していた日本のメガバンクが、ここぞとばかりに巻き返しを図ろうとしているらしいけど……」
「日本ねえ」
 新聞をめくりながらウラジーミルがシニカルな笑みを浮かべた。
 一言ありそうな様子を察し、パスカルも新聞を広げながら、問う。
「なに?」
「いや。……まあ、こんなこと、ユウリには絶対に聞かせられないけど、俺はあまり日本経済を信用していない」
「どうして?」
「だって、あいつらの場合、木を育てるのはうまいけど、森を作るのは下手だから。…………個人だろうが、企業だろうが、国家だろうが、資金を増やすことに長(た)けてはいても、それを運用するのがへたくそだ」
「それはそうかもしれないな。確かに、彼らはお金の使い方が下手だね。……でも、そのおかげを被っているのは、僕たちヨーロッパの産業界だろう。なにせ、老舗のプライドを捨てて、ブランド好きの日本人向けに事業を拡大したところが、ことごとく業績を伸ばしているんだ。それに、なんといっても、日本の技術は、やはりトップレベルだと思うよ」
「それは認める。俺だって、日本の産業界には敬意を表しているさ」
 その後、二人はしばらく黙って新聞を読み耽(ふけ)る。
 談話室の外では、ようやく起き出したらしい他の監督生たちの話し声が響いている。
 生活感のある喧騒(けんそう)とは対照的に、談話室には静かな時間が流れていた。
 と――――。
 どこかでコトンと小さな音がして、一陣の風が新聞紙の端をはためかせた。
(……風)
 意識するには至らない程度に思い、パスカルは新聞を読み続ける。
 すると、突然、その声が響いた。
「はちみつ酒を所望しているのは、どなたさん?」
「はちみつ酒?」
 パスカルが顔をあげずにきき返す。
「うんそう。欲しがっている人間がいるって」
「さあ。僕は知らないよ」
 それに対し、ウラジーミルが言う。
「朝からはちみつ酒はないだろう。コーヒーならもう一杯欲しいけどね」
「ああ、それなら僕も――――」
 頷きかけたところで、ようやく違和感を覚えたパスカルが顔をあげる。
 遅れてウラジーミルも顔をあげた。
 二人の目が合う。
 そのままの状態でしばらく沈黙し、ややあってパスカルがきく。
「なんで、今、はちみつ酒?」
「俺が知るか。お前が言い出したんだろう?」
「僕じゃないよ」
「じゃあ、誰が言ったんだ?」
「さあ?」
 そこで再び沈黙が流れ、二人の視線が自然とドアのほうに向けられる。
 談話室のドアは、基本的に開けっ放しになっていて、誰でも自由に出入りできる。だから、通りすがりに誰かが声をかけていった可能性も否定できない。
 ただ、パスカルもウラジーミルも、口にこそしないが、先ほどの声は、入り口よりもっとずっと近い場所で聞こえたように感じていた。
 それこそ、すぐ隣に立った人間に話しかけられたような印象だったからこそ、揃いも揃って、お互いの声と勘違いしたのだ。
 二人の視線の先には、ドアの向こうを行き来する生徒の姿がちらほらと見えている。だが、部屋の中に注意をはらう人間はいないようだ。黙ったままでいるパスカルの頬(ほお)を、冷たい空気がなぜていく。視線を転じると、窓ガラスの1つが開いていて、カーテンが風にそよいでいた。
「窓……」
 パスカルの呟(つぶや)きを聞いて、ウラジーミルが訝(いぶか)しげな視線を向けてくる。
「なんだって?」
「いや」
 パスカルは、分厚い眼鏡を押し上げると、ウラジーミルに視線を戻しながら言った。
「あの窓、来た時から開いていたっけ?」
「……よく覚えていないが、開いているのなら開いていたんだろう。単に気づかなかっただけで」
「……まあ、そうだよね」
 ウラジーミルらしい冷静な返事に、いちおう頷いてはみせたものの、パスカルはどうも納得がいかない。この部屋に入ってきた時、窓ガラスはすべて閉まっていたという記憶が、うっすらとだが、残っているせいだろう。
 ただ、それは主張できるほどはっきりとしたものではないため、言い返すことができずに黙り込む。もやもやした気持ちを拭(ぬぐ)い去れないまま、新聞を置いて立ち上がったパスカルは、歩いていって、開いている窓に手をかけた。
 閉めようと動かしかけたが、そこでふいに何か思いついたように手を止めて、朝露に濡(ぬ)れて、しっとりとしている木々に視線をやった。
 まだうっすらと靄(もや)のかかる雑木林。
 斜めに差し込む朝の陽射しを受けてきらきらと輝く枝葉を見つめながら、パスカルは小さく呟いた。
「ルパートのハリネズミは、見つかったかな」

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◆ バックナンバー ◆
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2008年11月1日 セント・ラファエロ物語 アナザーピープル「第2話」ルパート・エミリの無念
2008年12月1日 セント・ラファエロ物語 アナザーピープル「第3話」数学者と皮肉屋の不審
2008年12月25日 セント・ラファエロ物語 アナザーピープル「第4話」ドナルド・セイヤーズの休息
2009年2月1日 セント・ラファエロ物語 アナザーピープル「第5話」アーサー・オニールの憂さ晴らし
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2009年4月1日 セント・ラファエロ物語 アナザーピープル「第7話」エドモンド・オスカーの誤算
2009年5月1日 セント・ラファエロ物語 アナザーピープル「第8話」ドルイドの助言と悪魔の罠(わな)
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