講談社BOOK倶楽部

ホワイトハート X文庫 | Web連載小説
セント・ラファエロ物語
~アナザーピープル~
篠原美季/著
「第2話」ルパート・エミリの無念

 ひとりの青年が、黄色く色づいた並木の下を歩いている。
 朝から良く晴れた、すがすがしい秋の午後のことだ。
 こんな時、革表紙とまではいかないまでも、ハードカバーで厚みのある本を片手に、読書に適した場所でも探していれば風情もあろうというものだが、残念なことに、彼が手にしているのは一房のぶどうだ。それをつまみながら、のんびり歩いている。
 青年の名前は、ルパート・エミリ。
 イギリス西南部にある全寮制パブリックスクール、セント・ラファエロの最上級生であり、全部で5つある寮のうち、もっとも西側に位置するヴィクトリア寮(ハウス)の監督生を務める生徒だ。彼はまた、寮生を代表して学校運営に携わる生徒自治会(スチューデントソサエティ)執行部のメンバーでもあった。
 肩書だけ聞いていると、なかなか優秀な生徒のようだが、彼の場合、優秀さというより、むしろその類(たぐい)まれなる性質ゆえに、今の地位までのしあがった。しかも、自分でのしあがったというよりは、言ったように、その類まれなる性質を周囲の人間に買われ、その性質を必要とする人物の要請で、代表入りしたに過ぎない。そのことを、彼は引け目に思うこともなければ、得意になることもない。
 ただ、自分の能力が役に立つのは、嬉(うれ)しいと感じている。誰しも、無用の長物と思われるよりは、有用でありたいと願うもので、そういう意味では、彼は己の役割に満足していた。
 とはいえ、こうして食後のデザートを片手に散歩に出る喜びを味わえるのであれば、たとえ代表や監督生でなかったとしても、彼は学校生活に十分満足できたであろう。
「やっぱり、果物ならりんごかぶどうだよな。バナナも好きだけど、あとパイナップルも好きだし、桃もいいな。スイカは食べ過ぎてお腹を壊したことがあって、だからって別に嫌いではないけど、まあ、歩きながら食べるのなら、やっぱりりんごかぶどうかバナナだ」
 言いながら、大粒のぶどうを1つ投げ上げる。
 だが、彼が大きく口を開いて上を向き、落ちてくるぶどうをキャッチしようとした、その時だ——。
 ビュンッ。
 つむじ風が巻き起こり、何かが宙を過ぎていった。同時に、落ちてくるはずだったぶどうの実が、消える。
「えっ?」
 ルパートは、びっくりして立ち止まり、キョロキョロと周囲を見回す。だが、彼のぶどうが落ちている様子は、どこにもない。
「……なんだ、今の?」
 眉(まゆ)をひそめ、首を傾げるルパートであるが、しばらく考えた末、「ま、いいか」とあっさり忘れることにして、再び歩き出した。
 午後遅くに、数学の教師による情報工学についての個人授業がある。それまでに、彼はケンブリッジ大学の教授が著したウェブの活用と文化の行く末を論じた本を読み上げておく必要があるのだが、食後30分以内に活字を読むことは健康によくないと手前勝手に決めつけ、こうして散歩を楽しんでいる。
(いやなに)
 ルパートは、のんきに考える。
(あの本なら、パスカルかシモンあたりが、絶対に読んでいるはずだから、いざという時は、どっちかつかまえて、要約してもらえばいいさ。うまくすれば、情報工学を絡めた論じ方も伝授してもらえるだろうし)
 日ごろ親しくしている学業優秀な仲間の顔を思い浮かべ、フフンと笑う。
 数学の天才と誉れ高いジャック・パスカルはもとより、ヨーロッパ全土にその名をとどろかせる事業家の息子シモン・ド・ベルジュなどは、あらゆる分野における最新の論文を読みあさっているような人間であるため、これほど有名な著作を読んでいないわけがないのだ。
 問題は、2人とも揃(そろ)って良識的な人間であるため、ルパートのものぐさに対し、論文の解説ではなくお説教が返ってくる可能性は高い。だが、その時はその時で、彼らを買収するだけの情報を、ルパートは懐(ふところ)に隠し持っていた。
 そう。
 情報収集能力——。

イギリス
テムズ川にかかるゴシック様式のタワー・ブリッジ(著者撮影)
 それこそが、彼を現在の地位にまで押し上げた類まれなる能力であった。
 つまり、おっとりした外見に似合わず、学校内におけるありとあらゆる裏事情に通じているのが、ルパートという人間なのだ。
(まあ、シモンには、軽くユウリネタだな)
 逸材として知られるシモンであれば、隙(すき)など一つもないようであるが、彼が何より大事にしている友人ユウリ・フォーダムには、隙が多い。いや、むしろ隙だらけだ。それがとりもなおさず、常にユウリのことを心配するシモンの唯一の弱点となるわけで、下手をすると地雷を踏みかねないが、まあ、それはそれで、とにかく、シモンの前でユウリに関する情報をちらつかせると、たいていはこちらの言い分を聞き入れてくれる。
 それより、難しいのはパスカルだった。
(あいつ、意外と隙がないんだよな)
 そんなことを考えながら、ルパートは再び1粒のぶどうを宙に放り投げる。「あ~ん」と、声でもしそうなほど大口を開けて上を向いたところで、またしてもつむじ風が起こり、空中のぶどうが目の前から消え去った。
「——!」
 立ち止まったルパートが、上下左右の様子を鳥のような動きで窺(うかが)う。だが、やはりぶどうがどこに消えてしまったのかは、皆目わからない。
「なんなんだ?」
 1度ならまだしも、2度目ともなると、「ま、いいか」では済まされない。いったい、彼のぶどうはどこに消えてしまうのか。
 さんざん頭を悩ませたあげく、彼は一連の出来事を頭の中で検証してみることにした。
 まずは、ぶどうを投げ上げる。
 落ちてくる。
 何かが、宙をよぎる。(それは、つむじ風でわかる)
 ぶどうが消える。
「よし」
 検証を終えた彼は、周囲に注意深いまなざしを向け、ゆっくりと1粒のぶどうを投げ上げた。
 彼の指を離れたぶどうがクルクルと回転しながら宙を舞い、運動エネルギーを位置エネルギーに変換させたところで、逆向きの運動エネルギーが働き、落ちてくる。本来なら口を開いて待っているはずの状況で、彼はじっと目をこらす。
 と——。
 ササッと。
 黒い影がよぎるのを見た。——ように思う。
 だが、それは本当に一瞬の出来事で、つむじ風を感じた時には、やはりぶどうはあとかたもなく消えていた。種すら残っていない。
「……どういうことだろう?」
 考えられることといえば、食い意地の張ったカラスの仕業であるが、そのわりに木立のどこにもカラスの姿はない。上空から急降下してくるには動きが速すぎるし、羽音の一つもしないのは変である。
 でも、カラスでなければ、なんなのか。
 考え込んだルパートは、ふと思いつき、残っていたぶどうの実を、立て続けに投げ上げる。
 1つ、2つ、3つ、4つ。
 すると——。
 ササ、ササ、ササ、ササと、何かがせわしく往来し、ぶどうの実は一つ残らず消えた。
 (おかしい。絶対におかしい。)
 とてもではないが、カラスの動きとは思えない。あまりに、速すぎる。相手の正体はわからないが、目にも止まらぬ速さとは、まさにこのことである。
 ルパートは、眉をひそめ、うさんくさそうに宙を睨(にら)む。
 睨みながら、最後の実を食べようと口元に手を持っていったが、彼の口に入る前にそれも忽然(こつぜん)と消えた。
「ちきしょう」
 彼は、毒づいた。
「誰だか知らないけど、覚えとけよ!」
 片手を振り上げ捨て台詞を残した彼は、ズカズカと歩き出した。足音にまで怒りがにじみ出るほど、怒っていた。食い物の恨みは、怖いのだ。誰だか知らないが、7代先まで恨んでやるぞとこぶしを握る彼であったが、怒り心頭に発して突き進むうち、木立の切れ目のあたりまで来たところである光景を目にし、びっくりして立ち止まった。
 そこには、ありえない光景があった。
「……ウソ」

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◆ バックナンバー ◆
2008年10月1日 セント・ラファエロ物語 アナザーピープル「第1話」マーク・テイラーの隠し事
2008年11月1日 セント・ラファエロ物語 アナザーピープル「第2話」ルパート・エミリの無念
2008年12月1日 セント・ラファエロ物語 アナザーピープル「第3話」数学者と皮肉屋の不審
2008年12月25日 セント・ラファエロ物語 アナザーピープル「第4話」ドナルド・セイヤーズの休息
2009年2月1日 セント・ラファエロ物語 アナザーピープル「第5話」アーサー・オニールの憂さ晴らし
2009年3月1日 セント・ラファエロ物語 アナザーピープル「第6話」ユウリ・フォーダムの昼休み
2009年4月1日 セント・ラファエロ物語 アナザーピープル「第7話」エドモンド・オスカーの誤算
2009年5月1日 セント・ラファエロ物語 アナザーピープル「第8話」ドルイドの助言と悪魔の罠(わな)
2009年6月1日 セント・ラファエロ物語 アナザーピープル「第9話」シモン・ド・ベルジュのため息