イギリス西南部、サマーセットシャーにある全寮制パブリックスクール、セント・ラファエロに、正午を告げる鐘が鳴り響いた。高らかに鳴り渡るその鐘の音が終わらないうちに、それまで森閑としていた校舎のあちこちで、生徒たちの騒ぐ声が聞こえ始める。 それが一気に膨れあがり、またたく間にそこらじゅうが喧騒(けんそう)に包みこまれた。 「なあ、俺の席も取っておいて!」 「数学、チョー難しいんだけど」 「やべえ。俺、宿題出された!」 「腹減った~~!」 「今日、カフェテリアで食わねえ?」 「そうだ。この前の借り返せよ!」 「借り?」 「財布忘れた時、おごってやったろう?」 ノートや本を小脇に抱え、秋空に吸い込まれていく声の奔流を聞き流しながら歩いていたヴィクトリア寮(ハウス)の寮長であるドナルド・セイヤーズは、カフェテリアの前を通り過ぎようとして、ふと足を止める。 カフェテリアの前に長蛇の列ができているのが見えたからだ。 (ああ、今日は火曜日か) 毎週火曜日、生徒たちに人気のあるパン屋がパンを売りにやってくるので、カフェテリアはいつも以上に混みあう。 かくいう彼も、そこのパンが好きだった。 腕時計に目を落としたセイヤーズは、少し考えた末、列の最後尾に並んだ。 幸いなことに、今日は生徒自治会(スチューデントソサエティ)執行部の会議もないし、寮内で話し合いをしなければならないような懸案事項もない。 つまり。 (たまには、寮長が寮にいなくてもいいということだ) 新学期からヴィクトリア寮の寮長に就任し、なおかつ、下級第4学年(ロウアーシックスフォーム)からはたった3人しか選ばれることのない生徒自治会執行部の代表になって以来、雑事に追われてきた彼は、ここしばらく自分の時間を持つことがほとんどできなかった。 生真面目(きまじめ)で努力家の彼は、仕事の手を抜いたりしないため、上級生から信頼され、よけいに仕事を任されてしまうせいだ。 それなのに、どれほど骨身を削って仕事をしても、周囲の人間はさほど同情してくれない。 おそらく、一部の人間から「能面」と呼ばれているポーカーフェイスのせいだろう。あるいは、冷淡に見える薄緑色の瞳のせいか。 だけど、彼だって、疲れを覚えることもある。 久々に一人の時間を楽しもうと決めた彼は、順番が回ってきたところでサンドウィッチ2つとバナナとアイスコーヒーを購入し、混雑するカフェテリアを横目に外に出た。 途中、カフェテリアの奥に、彼の先輩にあたる、ヴィクトリア寮の筆頭代表であるシモン・ド・ベルジュとその友人であるユウリ・フォーダムの姿を見つけ、遠目にも仲むつまじげな二人の様子を、少しだけ羨(うらや)ましく思った。 もし、この瞬間、なにか問題が起きて、筆頭代表が姿を消したとしたら、彼は迷わず空いた席に座るだろう。 たまにはひとりになりたいと思ったとはいえ、フォーダムが相手なら話は別だ。 彼の持つおだやかで静かな雰囲気(ふんいき)は、そばにいるだけで、心身とも癒(いや)される。その効果たるや、マイナスイオンを発する清らかな泉のそばにいるようなものだった。 しかも、そう思っているのは、自分だけではない。 ああしていつも一緒にいるベルジュは、まさにその恩恵を独占しているわけである。 以前、セイヤーズは、あまりに両極端な二人の関係を理解できず、うとましく思っていたのだが、それぞれを良く知るうちに、むしろアンバランスであるがゆえの絶対的な安定感というものに気づき、逆にそういう関係をうらやましく思うようになった。 たとえば、自分には、エドモンド・オスカーという、性格こそ違うものの、対等に振る舞える友人がいて、おそらく親友と呼んで差しつかえないはずだが、それでも、どこかで方向をたがえれば、そのまま永久に違う道を歩んでいくことが容易に想像できる。互いの立ち位置が明確である分、永遠ではないのだろう。 それに対し、くだんの上級生二人の間には、一歩一歩積み上げてきた堅固な結びつきがあるように思える。 そんな相手に巡り合えるというのは、とても幸運なことであるはずだ。 だからであろう、気づけば、セイヤーズ自身が、彼らの関係に焦がれるほどの憧憬(どうけい)を抱くようになっていた。 (これじゃあ、オスカーのことをとやかく言えないな) 苦笑し、それでも親友のエドモンド・オスカーより自重する術(すべ)を知っている彼は、上級生たちの邪魔はせず、カフェテリアを離れる。