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ホワイトハート X文庫 | Web連載小説
セント・ラファエロ物語
~アナザーピープル~
篠原美季/著
「第4話」ドナルド・セイヤーズの休日

 イギリス西南部、サマーセットシャーにある全寮制パブリックスクール、セント・ラファエロに、正午を告げる鐘が鳴り響いた。高らかに鳴り渡るその鐘の音が終わらないうちに、それまで森閑としていた校舎のあちこちで、生徒たちの騒ぐ声が聞こえ始める。
 それが一気に膨れあがり、またたく間にそこらじゅうが喧騒(けんそう)に包みこまれた。
「なあ、俺の席も取っておいて!」
「数学、チョー難しいんだけど」
「やべえ。俺、宿題出された!」
「腹減った~~!」
「今日、カフェテリアで食わねえ?」
「そうだ。この前の借り返せよ!」
「借り?」
「財布忘れた時、おごってやったろう?」
 ノートや本を小脇に抱え、秋空に吸い込まれていく声の奔流を聞き流しながら歩いていたヴィクトリア寮(ハウス)の寮長であるドナルド・セイヤーズは、カフェテリアの前を通り過ぎようとして、ふと足を止める。
 カフェテリアの前に長蛇の列ができているのが見えたからだ。
(ああ、今日は火曜日か)
 毎週火曜日、生徒たちに人気のあるパン屋がパンを売りにやってくるので、カフェテリアはいつも以上に混みあう。
 かくいう彼も、そこのパンが好きだった。
 腕時計に目を落としたセイヤーズは、少し考えた末、列の最後尾に並んだ。
 幸いなことに、今日は生徒自治会(スチューデントソサエティ)執行部の会議もないし、寮内で話し合いをしなければならないような懸案事項もない。
 つまり。
(たまには、寮長が寮にいなくてもいいということだ)
 新学期からヴィクトリア寮の寮長に就任し、なおかつ、下級第4学年(ロウアーシックスフォーム)からはたった3人しか選ばれることのない生徒自治会執行部の代表になって以来、雑事に追われてきた彼は、ここしばらく自分の時間を持つことがほとんどできなかった。
 生真面目(きまじめ)で努力家の彼は、仕事の手を抜いたりしないため、上級生から信頼され、よけいに仕事を任されてしまうせいだ。
 それなのに、どれほど骨身を削って仕事をしても、周囲の人間はさほど同情してくれない。
 おそらく、一部の人間から「能面」と呼ばれているポーカーフェイスのせいだろう。あるいは、冷淡に見える薄緑色の瞳のせいか。
 だけど、彼だって、疲れを覚えることもある。
 久々に一人の時間を楽しもうと決めた彼は、順番が回ってきたところでサンドウィッチ2つとバナナとアイスコーヒーを購入し、混雑するカフェテリアを横目に外に出た。
 途中、カフェテリアの奥に、彼の先輩にあたる、ヴィクトリア寮の筆頭代表であるシモン・ド・ベルジュとその友人であるユウリ・フォーダムの姿を見つけ、遠目にも仲むつまじげな二人の様子を、少しだけ羨(うらや)ましく思った。
 もし、この瞬間、なにか問題が起きて、筆頭代表が姿を消したとしたら、彼は迷わず空いた席に座るだろう。
 たまにはひとりになりたいと思ったとはいえ、フォーダムが相手なら話は別だ。
 彼の持つおだやかで静かな雰囲気(ふんいき)は、そばにいるだけで、心身とも癒(いや)される。その効果たるや、マイナスイオンを発する清らかな泉のそばにいるようなものだった。
 しかも、そう思っているのは、自分だけではない。
 ああしていつも一緒にいるベルジュは、まさにその恩恵を独占しているわけである。
 以前、セイヤーズは、あまりに両極端な二人の関係を理解できず、うとましく思っていたのだが、それぞれを良く知るうちに、むしろアンバランスであるがゆえの絶対的な安定感というものに気づき、逆にそういう関係をうらやましく思うようになった。
 たとえば、自分には、エドモンド・オスカーという、性格こそ違うものの、対等に振る舞える友人がいて、おそらく親友と呼んで差しつかえないはずだが、それでも、どこかで方向をたがえれば、そのまま永久に違う道を歩んでいくことが容易に想像できる。互いの立ち位置が明確である分、永遠ではないのだろう。
 それに対し、くだんの上級生二人の間には、一歩一歩積み上げてきた堅固な結びつきがあるように思える。
 そんな相手に巡り合えるというのは、とても幸運なことであるはずだ。
 だからであろう、気づけば、セイヤーズ自身が、彼らの関係に焦がれるほどの憧憬(どうけい)を抱くようになっていた。
(これじゃあ、オスカーのことをとやかく言えないな)
 苦笑し、それでも親友のエドモンド・オスカーより自重する術(すべ)を知っている彼は、上級生たちの邪魔はせず、カフェテリアを離れる。

トリニティ・カレッジの外観(オックスフォード)
トリニティ・カレッジの外観(オックスフォード)
 彼が向かったのは、雑木林の中に点在する東屋(あずまや)の一つだ。
 今日ほどよい天気であれば、多少風が冷たくても、気持ちいいだろう。
 幸い、昼休みに読んでおこうと思っていた科学雑誌を持っているので、準備は万端というところだ。
 道々、すれ違った顔見知りの生徒に、寮の食堂で昼食を取るはずの他の仲間への伝言を頼み、彼は揚々とした気分で歩いていく。
 すると、ややあって、雑木林の中で、これまた彼の直接の先輩に当たるルパート・エミリが歩いてくるのに出くわす。
 情報通で有名なルパート・エミリは、どこか不機嫌そうに背後を見て、「今度はりんごかよ」とかなんとかぶつくさ言っているようだったが、立ち止まってこちらを見ているセイヤーズに気づくと表情を和らげて気さくにあいさつしてくれる。
「やあ、セイヤーズ」
「どうも、エミリ。……こんなところで、どうしたんですか?」
「ん、――――まあ、いろいろとあってね、ネズミ捕りというか、ゴキブリキャッチというか、ちょっとした罠(わな)でも仕掛けてみようかと思ったんだけど」
「罠って、こんなところに!?」
 セイヤーズが驚くのも無理はない。
 ネズミにしろ、ゴキブリにしろ、屋内だからこそ罠を仕掛ける意味があるのであって、こんな戸外に設置したら、それこそごまんと捕まるだろう。
 想像するだけで、恐ろしい。
 そして、まったく無意味だ。
 思わず顔をしかめたセイヤーズの表情を見て、ルパートが弁明する。
「あ、いや、本当にネズミやゴキブリを捕まえるわけじゃないよ。ただ、なんというか、いるのかいないのかわからないような奴を相手にしているというだけで……」
 だが、意味不明の弁明は、セイヤーズの表情をさらに不審げなものにしただけだった。
「ああ、確かにこんな説明じゃあ、わかりづらいよな。……なんと言えばいいんだろう、難しいんだけど……」
 やがて、説明をあきらめたらしいルパートが、一つため息をついてから、変なことをきく。
「……ぶっちゃけ、君、ここに来る途中、りんごを背負ったハリネズミを見なかったかな?」
 だが、それに対するセイヤーズの、あまりに冷たく蔑(さげす)むような反応を目にして、ルパートが、慌てて否定する。
「あ、ウソ。今のなし。なんでもないから、忘れて」
 実際、セイヤーズはかなりあきれていたのだが、別に蔑んだわけでも冷たく突き放したわけでもなく、単純にびっくりしただけだった。
 それでも、ルパートは話題を変えるようにセイヤーズの手にしている紙袋に目をやって、きく。
「もしかして、外で昼食を食べるのかい?」
「そのつもりですけど」
 それが何かと言わんばかりの下級生に対し、ルパートが迷った末に忠告する。
「それなら、くれぐれも果物からは目を離さないことだよ」
「…………」
 その言葉を最後に離れていった上級生の後ろ姿を目で追い、セイヤーズは首を傾げる。
 普段から陽気で人当たりのいいルパート・エミリは、その人のよさゆえのずば抜けた情報収集能力があって、上級生の中でも重きを置かれている人物の一人だ。今期は、筆頭代表の片腕として、生徒自治会執行部の代表に名を連ね、セイヤーズと一緒に仕事をする機会も増えている。
 だから、多少なりとも相手の人となりを知っているセイヤーズにしてみれば、今のルパートはどこか変だった。
 いったい何が彼をそうさせているのか。
(りんごを背負ったハリネズミ?)
 上級生の残した言葉を改めて反芻(はんすう)してみて、セイヤーズは苦虫をかみつぶした。
 何が嫌いかといって、セイヤーズは、理屈の通らないことや意味のわからないことが大嫌いである。
 正体不明のものが苦手と言い換えてもいい。
 だから、幽霊やお化けなどは、絶対に受け入れられないし、会いたいとも思わない。
 別に、上級生が魑魅魍魎(ちみもうりょう)の存在を示唆したとは思わないが、何がなんだかわからないまま取り残されたことが、セイヤーズを落ち着かない気分にさせていた。
 仮にルパートが、人一倍迷信好きであるとか、妄言に惑わされやすい性格であれば、セイヤーズも一笑に付して終わらせるのだが、あいにくと基本的には理性的で、蒙昧(もうまい)とはかけ離れた人間であることを知っている。
 つまり、意味のない話で人を翻弄(ほんろう)するような性格はしていないということだ。

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◆ バックナンバー ◆
2008年10月1日 セント・ラファエロ物語 アナザーピープル「第1話」マーク・テイラーの隠し事
2008年11月1日 セント・ラファエロ物語 アナザーピープル「第2話」ルパート・エミリの無念
2008年12月1日 セント・ラファエロ物語 アナザーピープル「第3話」数学者と皮肉屋の不審
2008年12月25日 セント・ラファエロ物語 アナザーピープル「第4話」ドナルド・セイヤーズの休息
2009年2月1日 セント・ラファエロ物語 アナザーピープル「第5話」アーサー・オニールの憂さ晴らし
2009年3月1日 セント・ラファエロ物語 アナザーピープル「第6話」ユウリ・フォーダムの昼休み
2009年4月1日 セント・ラファエロ物語 アナザーピープル「第7話」エドモンド・オスカーの誤算
2009年5月1日 セント・ラファエロ物語 アナザーピープル「第8話」ドルイドの助言と悪魔の罠(わな)
2009年6月1日 セント・ラファエロ物語 アナザーピープル「第9話」シモン・ド・ベルジュのため息