講談社BOOK倶楽部

ホワイトハート X文庫 | Web連載小説
セント・ラファエロ物語
~アナザーピープル~
「第4話」ドナルド・セイヤーズの休息

(りんごを背負ったハリネズミ……)
 そのことが頭から離れなくなってしまったセイヤーズは、モヤモヤしたものを抱えこんだまま目的地にたどり着く。
 だが、せっかく一人でのんびりしようと思っていたのに、これでは意味がない。
 そこで、意識して気分を切り替え、彼は人のいない東屋に座ると、サンドウィッチの袋を破って食べながら、早々に雑誌のページを開いた。
 論理的な記事を読めば、うやむやなざれ言など吹き飛んでしまうと踏んだのだ。
 そして、それは成功した。
 程なくして、彼が興味を覚えている「万能細胞」についての詳細な記事に没頭し、彼は食べることも忘れて読みふける。
 時おり、思い出したようにサンドウィッチに手を伸ばして口にするが、食べていることを意識してはいなかった。

トリニティ・カレッジの外観(オックスフォード)
トリニティ・カレッジの外観(オックスフォード)
 周辺は、静かだった。
 黄色く色づいた葉が、風にあおられて落ちる音まで聞こえてきそうなほどである。
 と、その時。
 一陣の風がサッと吹き過ぎ、セイヤーズの亜麻色の髪を揺らした。
 記事から目を離さずにアイスコーヒーに手を伸ばした彼は、その瞬間、何か硬い物をつかんだように思って、ふと意識を引き戻される。
(……?)
 なんだろうと思い、手につかんだ物を見れば、それはなんと、かじり終わったりんごの芯(しん)だった。
(りんご?)
 いったい、なんでこんなところにりんごの芯が落ちていたのか。
 不思議に思っていると、すぐ近くで声がする。
「ちょいとお尋ねしますけど、はちみつ酒をご所望で?」
「いや」
 否定しながら振り返ったセイヤーズだったが、そこには誰の姿もない。
「――――!」
 驚いて立ち上がった彼の腿(もも)の上から科学雑誌が滑り落ちる。
 だが、そんなことを気にする余裕はなかった。
 慌ててキョロキョロと見回すが、東屋を囲む雑木林には、人っ子一人見あたらない。
(いったい、今のはなんだ――――っ?)
 幻聴と思いたいが、それにしてはあまりにもはっきりと聞こえすぎた。
 絶対にそこに誰かいたはずなのに、実際には誰もいない。
 その結論に至ったセイヤーズの背筋が、ゾッと震える。
(――――だから、僕は、訳のわからないことが嫌いなんだ!)
 そんな言い方でなんとか恐怖心をごまかそうとするが、一度怖いと思ってしまうと、人間すぐには立ち直れない。こうなってくると、さっきまで愛してやまなかった静けさまでが、空恐ろしいものに思えてくる。
 人けのない雑木林。
 カサッという音が、何かの襲来を告げるように重々しく響く。
(落ち着け)
 セイヤーズは、己に言いきかせた。
 きっと、雑木林の向こうを生徒が通っていった時に聞こえた声だったんだ。
 それが、風か何かの具合で、すごく近くに聞こえたにすぎない。
(そう、たいしたことじゃない)
 それでもまだあたりを気にしながら、セイヤーズは落とした雑誌を拾おうとして腰をかがめる。
 雑誌に手が届き、まさに拾い上げようとした時だった。
 ガサッと。
 すぐ近くで音がした。
 ビクッとして手を止めた彼は、腰をかがめたまま一度息を吸い、それからおそるおそる音のしたほうを見る。
(――――!)
 セイヤーズが、口を開けるほど驚いたのも、無理はない。
 そこには、背中の針にバナナを突き刺して揚々と歩いていくハリネズミの姿があったからだ。
(バナナを背負ったハリネズミ?)
 そう思った瞬間、セイヤーズはついさっき出会った上級生の言葉を思い出す。

 ――――りんごを背負ったハリネズミ。

 ルパート・エミリは、確かにそう言った。
 けれど、今、セイヤーズの視界から消えようとしているハリネズミの背中には、バナナが突き刺さっている。
 それは、なぜか――――。
 あらゆることが理解不能な状況ではあったが、彼の明晰(めいせき)な頭脳は、ただ一つ理屈に合う事柄をはじき出して、その疑問に解答を与えていた。
 りんごではなく、バナナになっている理由。
 それは、食べ終わったりんごの芯を残していった代わりに、セイヤーズの買ったバナナを持っていってしまったからだろう。
 座り込んだままベンチの上を見れば、彼の推測どおり、袋の中にあったバナナが消えている。
 体から力が抜けてしまったセイヤーズは、その場で天を仰いでため息をついた。
 確かに、バナナを背負うハリネズミの存在や、さっきの声などは理屈に合わない奇妙なことであるのだが、それでも、ヨチヨチなんだか、ノシノシなんだかわからないような中途半端な足取りで歩き去っていたハリネズミの姿を思い返すと、なんだか、怖がっていた自分がものすごくバカみたいに思えてくる。
トリニティ・カレッジの外観(オックスフォード)
トリニティ・カレッジの外観(オックスフォード)
 その時。
「おい」
 背後から呼ばれ、彼は再びギクリとして、振り返る。
 すると、そこには、見慣れた同級生の姿があった。
「なんだ、オスカーか」
 内心では非常に安堵(あんど)したのだが、それを悟られたくなくて、とっさに不機嫌な声になる。
「俺で悪かったな」
 つまらなそうに言い返したエドモンド・オスカーだったが、相手の恰好(かっこう)に気づいて、いぶかしげに眉をひそめた。
「――――で、お前は、しゃがみこんで何をやっているんだ?」
「見てわからないか?」
「わからないからきいているんだろう」
「落とした雑誌を拾っているんだよ」
 説明しながら、今度こそ本当に雑誌を拾い上げたセイヤーズは、土を払いのけながら、まだいぶかしそうにしている友人にきき返す。
「そういうお前こそ、こんなところで何をしているんだ?」
「俺は、怠慢な寮長様を捜しに来たんだよ。――――ったく、職務放棄しやがって」
「誰が職務放棄だ」
 別に寮長だからといって、必ず寮で食事をしなければならないという規則はない。ただ血気盛んな年頃の青少年が暮らす寮では、いつどんな問題が起きるかわからないため、基本的に寮にいるように心がけているだけである。
 だから、今も文句を言われる筋合いではないのだが、わざわざ捜しに来たからには、けっこう深刻な問題が起きたのだろう。
 そうでなければ、日頃は怠慢であっても、いざとなれば、誰よりも実力を発揮するオスカーが解決して終わるはずだからだ。
「……それで、何があったって?」
「今朝、ケンカしてフォーダムに止められた奴らがいただろう?」
「ああ」
「あいつらが、懲りずにまたケンカをおっぱじめて、ひとりが窓ガラスに頭を突っ込んだ。病院行きだよ」
「――――なんで、誰も止めなかったんだ!」
「止めたよ。だけど、止めた奴が加減を間違えたせいで、病院行きになった」
「……バカじゃないのか」
「間違いなく、バカだろう」
 あれたように首を振ったセイヤーズは、そこで急いで持ち物をまとめてしまうと、オスカーに続いて東屋を後にする。
 その際、一度だけ、ハリネズミの消えていったほうに視線を投げたが、すぐに顔を戻して走り去っていく。
 頭上には、抜けるような青空が広がっている秋の午後。
 だが、せわしないヴィクトリア寮の寮長には、その下で安閑とする時間は当分訪れそうになかった。

前に戻る
第5話へ続く
◆ バックナンバー ◆
2008年10月1日 セント・ラファエロ物語 アナザーピープル「第1話」マーク・テイラーの隠し事
2008年11月1日 セント・ラファエロ物語 アナザーピープル「第2話」ルパート・エミリの無念
2008年12月1日 セント・ラファエロ物語 アナザーピープル「第3話」数学者と皮肉屋の不審
2008年12月25日 セント・ラファエロ物語 アナザーピープル「第4話」ドナルド・セイヤーズの休息
2009年2月1日 セント・ラファエロ物語 アナザーピープル「第5話」アーサー・オニールの憂さ晴らし
2009年3月1日 セント・ラファエロ物語 アナザーピープル「第6話」ユウリ・フォーダムの昼休み
2009年4月1日 セント・ラファエロ物語 アナザーピープル「第7話」エドモンド・オスカーの誤算
2009年5月1日 セント・ラファエロ物語 アナザーピープル「第8話」ドルイドの助言と悪魔の罠(わな)
2009年6月1日 セント・ラファエロ物語 アナザーピープル「第9話」シモン・ド・ベルジュのため息