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ホワイトハート X文庫 | Web連載小説
セント・ラファエロ物語
~アナザーピープル~
「第1話」マーク・ティラーの隠し事

 イギリス西南部。
 サマーセットシャーにある全寮制パブリックスクール、セント・ラファエロは、朝から秋晴れのすがすがしさに包み込まれていた。
 タッタッタッタッ。
 ハア、ハア、ハア、ハア。
 黄色く色づいた木立の下を、規則正しい息遣いが響き、ひとりの男が軽快なフットワークで走り抜けていく。
 彼の呼吸の音以外、聞こえてくるのは鳥のさえずりだけの静かな朝。木々の間に見えているのは、朝の陽光を浴びてきらきらと輝く湖面である。
 この学校が内包する湖は、女神の住処(すみか)を隠す聖地でもあるのだが、もちろん普通の人間が違いを見分けるのは無理である。ただ、詩人と呼ばれる者や季節の変化に敏感な人などが、折に触れ、息をのむほど美しいと感じるくらいか。
 今も、男の背景では、湖の一部に輝きが増して、透き通った美しい女性の姿が二人、三人と揺らいで見えているのだが、灰色のスウェットを身にまとう彼は、それに気づく様子もなく、フードを被った頭を地面に向け、まるで武者修行中のボクサーのような厳格さで走り続ける。
 彼の名前は、マーク・テイラー。
 この学校の最上級生で、全部で5つある寮のうち最西端に位置するヴィクトリア寮(ハウス)の監督生を務めている。さらに言うと、ボクサーではないが、近隣の学校に名の知られたラグビーの名選手だ。
 すがすがしい陽気に気をよくしたテイラーは、いつもの行程より足を延ばすことにして、学校の西側を占めている雑木林の中に入っていった。この先の工事中となっている霊廟(モーソリアム)の跡地の手前でUターンしてくるつもりである。

セント・ラファエロの舞台・グラストンベリーを望む(著者撮影)
セント・ラファエロの舞台・グラストンベリーを望む(著者撮影)
 タッタッタッタッ。
 暗い木立に、彼の足音が響く。
 タッタッタッタッ。
 タッタッタッタッ。
「もしもし」
 ふいに声がかけられたが、テイラーが気づいた様子はない。そのまま、フットワークを乱さずに走っていく。
 タッタッタッタッ。
「もしもし」
 タッタッタッタッ。
「————おい!」
 そこで初めて誰かに呼ばれたような気がしたテイラーが、その場でタッタッタッと足踏みしながら止まり、グルリと周囲を見回した。
 だが、落葉樹と常緑樹が混じって鬱蒼(うっそう)と茂る雑木林に、人のいる気配はない。
(————?)
 足を動かしながら猪首(いくび)を傾げた彼は、気のせいかと思い直して、再び走り出した。
 そこへ、また声がかけられた。
「おいこら、もしも~し」
 今度は止まらずに走りながら、テイラーが周囲に目をやる。
 あたりには、カシやカエデ、イチョウ、ケヤキやハンノキ、トネリコ、ポプラ、ハシバミなどがずらりと並び、その下にシダ科の常緑植物が生い茂る。だが、そのどこにも、人間の姿を見ることはなかった。
 しだいに、テイラーの走る速度があがっていく。
 タッタッタッタッタッタッ。
 タッタッタッタタタタタタ。
 タタタタタタタタタタタタタタ。
 気づけば、全速力に近い速度まであげたテイラーが、すごい勢いで走り去り、程なくしてUターンしたらしく、再び姿を現して全速力のまま戻っていった。
 シュタタタタタタタタタタ……。
 みるみるうちに遠ざかっていく足音。
 やがて、雑木林の中に静けさが戻り、なんの音もしなくなる。
 どこかで、カサッと枯れ葉が動いた。
 カサ。カサ。
 朽ちた葉を踏みしめて歩いていくのは、1匹のハリネズミだ。
 ハリネズミは見通しのいいところまでのらりくらり歩いてくると、ツッと後ろ足で立ち上がり、すさまじい勢いで走っていってしまったテイラーの後ろ姿を、前足を組んで見送った。
「……やれやれ。無視ですかい、ダンナ。いや、まいった!このピンチ様。人生最大のピンチだ。ホッホイ。まさか、無視されるとは思わなかった。もしかして、この姿がいけないのかな。でも、ピンチ様、いちばん得意な変身が、このハリネズミなんだから、ホイッ、しかたない。それに、人間の姿になるには、まだ早い。なにせ耳が隠せない。耳が隠せれば、もちろん人間の姿で出ていってやるけど、ホホイのホイ、なにせまだ早い。早い早いで、ひとっ飛び」
 そこで、クルンと一回転したハリネズミが耳の尖(とが)った妖精の姿に戻ったかと思うと、次の瞬間、ヒュッと風を切る音を立てて姿を消した。
 あおりを受けて舞い上がった木の葉が、ヒラリ、ヒラリと、舞い降りる。

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◆ バックナンバー ◆
2008年10月1日 セント・ラファエロ物語 アナザーピープル「第1話」マーク・テイラーの隠し事
2008年11月1日 セント・ラファエロ物語 アナザーピープル「第2話」ルパート・エミリの無念
2008年12月1日 セント・ラファエロ物語 アナザーピープル「第3話」数学者と皮肉屋の不審
2008年12月25日 セント・ラファエロ物語 アナザーピープル「第4話」ドナルド・セイヤーズの休息
2009年2月1日 セント・ラファエロ物語 アナザーピープル「第5話」アーサー・オニールの憂さ晴らし
2009年3月1日 セント・ラファエロ物語 アナザーピープル「第6話」ユウリ・フォーダムの昼休み
2009年4月1日 セント・ラファエロ物語 アナザーピープル「第7話」エドモンド・オスカーの誤算
2009年5月1日 セント・ラファエロ物語 アナザーピープル「第8話」ドルイドの助言と悪魔の罠(わな)
2009年6月1日 セント・ラファエロ物語 アナザーピープル「第9話」シモン・ド・ベルジュのため息