講談社BOOK倶楽部

ホワイトハート X文庫 | Web連載小説
セント・ラファエロ物語
~アナザーピープル~
「最終話」悪戯妖精の帰還

 しばらく悩ましげに考え込んでいたピンチが、パチンと指を鳴らして顔を輝かせる。
「思い出した! 確か奴さん、こう言っていたんです。『ユウリのものは俺のもの、俺のものは俺のもの』。要するに、簡略化による円満解決ですよ。そちらさんのものになるはずのはちみつ酒が、そちらさんの手に渡ってから悪魔の手に渡るのであれば、間をすっ飛ばして、最初から悪魔の手に渡してしまえばいいって――――」
 筋が通っているようでまったく通っていない説明を聞きながら、シモンとユウリは残念そうな視線を交わした。なぜなら、内容はともかく、彼らには、明らかに、そういうことを言いそうな人間に心当たりがあったからだ。
 しばらく見つめ合った後で、シモンが諦念(ていねん)を交えて言う。
「ほら。だから言っただろう、ユウリ。こんな茶番に付き合う必要はないよ」
「……そうだね」
 今度は、ユウリも素直に認めた。
「確かに、アシュレイの手に渡ったのなら、あえて危険を冒してまで取り戻しにいく必要はないかもしれない」
「『かも』ではなく、『絶対』だよ」
 シモンが、そう断言した時だ。
「それは、なんとも惜しいことだな」
 彼らの背後で声がする。
「惜しい」という言葉が、これほど快楽に満ちることはないというくらい、人を食った言い方だ。
 驚いて振り向いた彼らの目の先に、予想に違わず、この学校の卒業生であるコリン・アシュレイの姿があった。長身痩躯(ちょうしんそうく)。長めの青黒髪(ブルネット)を無造作に結わえ、青灰色の瞳でからかうように彼らを見ている。
 目が合ったとたん、「んぎゃ!」と叫んだピンチがポンと後ろに飛びのき、瞬時にハリネズミの姿に変わった。
 それをゆっくり見おろすユウリの前で、アシュレイが手にした壺(つぼ)を掲げて続ける。
「せっかくお相伴にあずからせてやろうとわざわざ出向いてやったのに――――。言っておくが、これはいわゆるアンブロシウス、天上界の飲み物だぞ。つまり、地上ではめったにお目にかかれない逸品ということだ。それを飲んでみたいと思わないとは、なんとも風情のない奴らだ」
 いけしゃあしゃあと言ってのけるが、そもそも、ユウリからその機会を奪ったのはどこのどいつであるというのか。非道にも奪取しておいて、この男には反省の色もない。
 呆れたように両手を広げたシモンが、諭すように告げる。
「お言葉ですが、それはユウリへの贈り物だったそうですよ。つまりあなたが持っていていいものではない。子供でもわかる理屈なのに、なぜ理解できないんです?」
「もちろん、理解しているさ。だから、俺が持っているわけで――――」
 これでは、堂々巡りだ。
 どうやら、世間一般に通じる常識は、アシュレイには通用しないらしい。
 己の正当性に一抹の疑いも抱いてないらしいアシュレイは、「そいつも言っていたが」と草の上で丸まるハリネズミを顎(あご)で指し、居丈高に宣告する。
「『ユウリのものは俺のもの。俺のものは俺のもの』。つまり、これがユウリへの贈り物である限り、俺が手に入れて悪いことはない。……そうだろう、ユウリ?」
 同意を求められたところで、絶対に「うん」とは言いがたい話だが、その場にしゃがみこんでハリネズミを抱えあげていたユウリは、チラッと厚顔無恥な男に視線をやり、ため息混じりに応じた。

ハムステッドヒースの風景
ハムステッドヒースの風景
(著者撮影)
「賛同はしかねますが、この場合はどうでもいいです。そんなことより、僕は、モルガーナにお礼を言いにいかないと」
「ほお。――――それなら、いっそ女神を酒宴に招待したらどうだ?」
「酒宴?」
「ああ」
 唐突に奇抜な提案をしたアシュレイは、暮れなずむ空を見あげて続ける。
「どうやら、このはちみつ酒は無尽蔵にあるようだからな。――――折しも、今宵は満月。中秋の名月にはちょっと遅いが、月を肴(さかな)に、女神と湖上で酒盛りというのも、乙だろう」
 セント・ラファエロでは、月夜の晩になると、時おり湖のほうから妙なる歌声や笛の音が聞こえてくることがある。そういう時、勇気を持って外に出てみれば、満面に月光を浴びた湖上に、きらきらと輝きながら飛び回る妖精たちの姿を見ることができるという。
 ただし――――。
 昔からの言い伝えが警告するように、その美しさに我を忘れてしまうと、気づいた時には妖精界に囚われていることがあるので、ご用心。
 酒宴に加わることができるのは、よほど豪胆で智恵(ちえ)のある者だけである。
 我こそはと思えば、彼らの前に姿を見せて、「ぜひとも一献」と願うのもいいが、身の程を知る者であれば、草の陰からこっそりと覗(のぞ)き見するのがいいだろう。
 それはともかく、我らがそそっかしき悪戯妖精が、その後どうなったかといえば――――。


「そうだ、モルガーナ」
 月下の湖上に浮かぶボートの上で、舳先(へさき)に座って盃(さかずき)を傾ける妖精「湖の貴婦人」ことモルガン・ル・フェに向かい、ユウリは、酔っ払って彼の足元に転がっていたハリネズミを抱きあげると、「これ」と言って差し出した。
「アシュレイが脅かすから、この姿になったまま戻らなくなっちゃったんだけど、無事に使命を果たしてくれたから、あとでよくお礼を」
 すると、片手で受け取ったモルガーナが、太平楽に寝返りをうとうとするハリネズミを複雑そうな表情で見おろし、ため息混じりに応じた。
「そなたは使命を果たしたと申すが、にわかには信じられぬこと。……むしろ、このうつけ者が、とんだ迷惑をかけたのでなければよいが」
「迷惑なんて、とんでもない。彼は、彼なりにがんばっていましたよ」
「それは、行き先も聞かず、聞きに戻ってもこないのであれば、奮闘したのは違いなかろうが、要はその仕方が問題なわけで」
「そんなに心配しなくても、特に混乱は起きなかったし、まあ、ちょっと騒がしくはあったみたいだけど、『結果よければすべてよし』ってね」
 涼やかに受け合うユウリの背後では、酒宴に同席していたシモンが苦笑を浮かべてはちみつ酒をすする。さらにその向こうには、船尾に寝転んで、小さな妖精をからかいながら同じくはちみつ酒を味わうアシュレイがいた。
 彼らの周りでは、妖精の群れが、白くたなびきながら煌(きら)びやかに舞い踊る。
 見あげた頭上には、今にも落ちてきそうな巨大な満月――――。
 それは、なんとも幻想的な風景だった。
 これで、ある時期のセント・ラファエロで起きた事件とも言えないような珍事件が幕を閉じることになる。あとから考えると、誰もが首をひねり、けれど数日後には忘れてしまうような些細(ささい)な違和感を残すだけの、本当に無意味な騒動であった。それでも、そこには確かに関わった人間がいて、異世界の住人と接点を持った、世にも珍しい事件だったのだ。
 ただ、初めにも言ったとおり、それを知るのは一部の人間のみだった。
 おそらく、世の中には、これと同じようなことが山のようにあるのだろう。みんな、それと気づいていないだけで――――。
 きっと皆さんの周りでも。
「あれっ?」と思った時は、ご用心。
 おっちょこちょいの妖精が、どこかに隠れているかもしれません。

前に戻る
The End
◆ バックナンバー ◆
2008年10月1日 セント・ラファエロ物語 アナザーピープル「第1話」マーク・テイラーの隠し事
2008年11月1日 セント・ラファエロ物語 アナザーピープル「第2話」ルパート・エミリの無念
2008年12月1日 セント・ラファエロ物語 アナザーピープル「第3話」数学者と皮肉屋の不審
2008年12月25日 セント・ラファエロ物語 アナザーピープル「第4話」ドナルド・セイヤーズの休息
2009年2月1日 セント・ラファエロ物語 アナザーピープル「第5話」アーサー・オニールの憂さ晴らし
2009年3月1日 セント・ラファエロ物語 アナザーピープル「第6話」ユウリ・フォーダムの昼休み
2009年4月1日 セント・ラファエロ物語 アナザーピープル「第7話」エドモンド・オスカーの誤算
2009年5月1日 セント・ラファエロ物語 アナザーピープル「第8話」ドルイドの助言と悪魔の罠(わな)
2009年6月1日 セント・ラファエロ物語 アナザーピープル「第9話」シモン・ド・ベルジュのため息